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むすんで
「ぼくたちの家をこわすな~!」
きんと凍てつく冬の朝。
乾燥した空気を切り裂いたのは、三歳の男の子の叫びだった。少年は武器を持った屈強な男たちに一人立ち向かおうとしている。
――子供は朝から元気だな。
今まさに壊されんとする家に向かって歩いていた淀屋 智は、昨日までの怒涛の残業でぼんやりする頭のままその光景を見つめた。
しかし少年よ、案ずることなかれ。
彼らは解体職人だ。決して山賊が民家を襲っているわけではない。
少年の瞳には「バールのような武器を持った悪人」に映ったのかもしれないが、実際は「仕事用のバールを持った職人」である。
そもそも昨年の暮れに智の祖父母が亡くなったタイミングで母屋の建て替えを検討し始め、それに伴い解体業者を手配したのは他でもない、少年の父親――智の兄だ。
「こらこら、まーくん! 解体屋さんに失礼なこと言わないの」
足場の組まれた母屋に隣接した離れから、おっとりとした女性が出てきた。兄嫁の涼香だ。
『まーくん』と呼ばれた少年は彼女に抱き上げられて回収されていく。地から離れた小さな足がぱたぱたと揺れている。
智が離れの玄関まで行くと、ちょうど旅行仕度を終えた涼香が『まーくん』を抱えて再び出てくるところだった。
「あら、智くん、おはよう。主人がごめんなさいね。せっかく智くん金曜日に代休とって三連休なのに、初日から離れで業者を監視しろなんて無理言ったみたいで」
「いえ……どうせ休みとってもやることないんで。今日はここでゆっくりしてます」
智は部屋に通されながら、目にかかる黒い前髪に触れて小さく会釈した。
育ちの良さを感じるお辞儀をした涼香が少年を連れて離れを出て行く。テーブルの上に彼女が用意してくれた軽食と茶菓子があった。
「あの兄貴の奥さんっていうのも大変だよなぁ」
他人事のように呟きながら、十二歳年上の兄の顔を思い浮かべる。
兄は父の仕事の都合上、十四歳まで海外暮らしだった。語学堪能で、今は一流商社で海外貿易関係の責任者をしているが、性格はプライドエベレスト級の超エリート気質だ。
一方の智は、二歳の頃に父の海外転勤が終わり、物心ついたときにはこの離れから見える木造二階建ての母屋でのほほんと暮らしていた、絵に描いたような一般庶民。
兄弟仲は悪くはないが共通点がなさ過ぎて、どうしても他人行儀になってしまう。
兄がアメリカの大学へ留学するのと同時に両親も再び海外勤務になってしまい、結果として智は都心の大学へ進学するまでの十六年余りを祖父母に育てられたようなものだった。
そのため智はこの母屋にもそれなりに愛着があったのだが、所帯を持ってからこの家の家主となった兄にとっては、ほとんど思い出がないどころか旧世代的で使いにくい建物だったのだろう。
建て替えについては、現在都内で一人暮らしをしている智にはそもそも拒否権はなかったし、海外にいる両親も反対しなかった。
都心からやや離れた郊外にあるこの家には、数年前からマイカー通勤の兄とその家族が住んでいたし、建て替えの理由も「家事や子育てがしやすいように」という冷血な兄にしては大変家族思いなものだったので、母屋がなくなってしまうのは寂しいけれど可能な限り協力しようと思ったのだ。
――それにしたって、解体業者が手抜きしていないか、離れのものをくすねて行かないか、なんて心配しすぎだよな……。
神経質で典型的なホワイトカラーの兄は、肉体労働者を一体なんだと思っているのだろうか。彼らだってプロの職人なのだから、自分の仕事にはプライドを持っているはずなのに。たしかに見た目は少し物騒だけど。
今週から始まった解体作業も、専業主婦の涼香が家にいて監視しているからと安心していたらしいが、遠方に住んでいる彼女のご両親が体調を崩したため智に白羽の矢が立った。
「どうせ金曜に代休を取るんだろ? ならこっちに来い」などと高圧的に言われ、「残業と休日出勤が重なったせいで今月中に代休を取るように言われている」なんて言わなければよかったと後悔した。
とはいえ、休日に何かやることがあるのかと言われれば特に何もない。兄は明日の夜までいないし、疲れていて逆らう気力もない。
ならばいっそのこと、思い出深い母屋の最後でも見ながらしんみりするか、と承諾したのだった。
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