one And Only

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「……星、うるせぇ」  見上げた異国の夜空は、中学生の頃に見た星座早見表よりもやかましく、小学生の頃の遠足で連行されたプラネタリウムよりも鮮やかに視界を圧迫してきた。  誰もいないところに行きたかった。誰かの機嫌をうかがうのにも、誰かの都合に振り回されるのにも、疲れた。ただ、一人でぼんやりしたかった。  文明なんかなくても、星明かりは十分に明るい。なんなら、障害物がないから見上げなくても視界の端で主張してくる。 「こんなところで何してるの?一人?」  映画でも滅多に聞けない綺麗なイギリス英語だった。ホテルを出てどのくらい歩いたか定かではなく、街灯も人通りもない道端で声をかけられるとは思っておらず幻聴かと思ったが、空に投げていた視線を少し落とすと白い顔がぼんやりと見える。  黒くはないが、金髪というには暗い髪は日の下なら茶色だろうか。明るい色のカーディガンを羽織っていて、星明かりでも輪郭がうかがえる。俺よりふた回りくらい大きい。  黒髪に黒いパーカー、ダークグレーのチノパンの俺をこの暗い中よく見つけたものだけれど、男の背後、三十メートルくらい先に車が見えた。何度か車とすれ違ったような気はするが、そのうちの一台だろうか。  運転中に真っ黒い人影が見えて驚いたのなら悪いことをしたが、わざわざ車を止めて声をかけてくるなんてとんだ暇人だ。治安は良い方だと聞いている。夜道に一人で出歩く観光客を心配した善良な地元民か、はたまたアホなカモを見つけたとほくそ笑む小悪党か。  どちらでも構わない。興味がない。  星を見る目的は達成したから、もうホテルに戻って寝てしまおう。見知らぬ外国人の言葉に応えることはせず、踵を返した。 「っ、待って」  必死な声に身がすくんで、掴まれた二の腕の痛みで眉間にシワが寄ったのがわかった。顔を上げて目が合うのが嫌で、俯いてポケットからスマホを取り出す。 『Release it』  手早くメモアプリに打ち込んで、男の顔の辺りに突きつけた。放せ、という俺の主張を汲んだのか、スマホの明かりに驚いたのかは知らないが、力が緩んだ瞬間に掴まれた腕を振り払って早足に歩き出す。気配が追い縋って来たけれど、再び捕まることも、怒鳴って呼びとめられることもなく遠ざかっていった。  万年運動不足の俺が走ったら足がもつれて転ぶに決まっているから、なるべく速く、でも足元をスマホで照らして慎重に歩く。振り返ることも歩みを緩めることもなくホテルの自室まで戻った。  部屋に入るなり、靴も脱がずにベッドにうつ伏せで倒れこむ。オートロックはドアを閉めるだけでいいから楽だ。ベッドの上で緊張が緩んでいくのを実感して、多少なりとヤバイかもという本能くらいは働いていたのかと、どこか他人事のように思う。  散歩だけなら良かったのに、人に出くわしたせいでひどく疲れた。二泊の予定だが、チェックインの時に部屋の掃除は不要だと伝えてある。ひきこもって寝られるだけ寝ようと心に決めた。  暗い中で横になると、急激に眠気が襲ってくる。寝るなら靴くらい脱ごうかとベッドからはみ出た足先を動かすけれど、左足から靴が脱げ落ちると同時に意識も落ちた。
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