03

1/1
2368人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

03

 あれよあれよという間に茜家に引っ越すことになり、初日はデリバリーのピザなんかを頼んだりして歓迎会を開いてもらってしまった。意外なのは茜さんで、無愛想なのかと思っていたが、口数が少ないくらいで思ったよりもふつうの人だった。ふつう? ふつうの定義が分からなくなってきつつあるけれど、俺が話しかけてもちゃんと相槌を打ってくれる。  柊太くんは茜さんの仕事が終わるのを待って、保育園から帰ってくる。茜さんが勤める会社と家との中間くらいに柊太くんの通う保育園があり、その近所には茜さんの実家もあるから、そこで夕飯を食べてくるのだという。俺も茜さんの実家に来て、一緒にごはんを食べたらどうだと提案されたものの、初日から居座った図々しい俺でも、さすがにそこまでは出来ない。この家のキッチンは好きに使って良いと言われたので、早速自分好みの鍋やら調味料やらを買い込んできた。立派な冷蔵庫もあるのに、中に入っているのは柊太くんのものらしいフルーツゼリーや牛乳といった類と水くらいしか入っていなかった。  今日は自分用のマグカップを買ったところで満足してしまい、コンビニで弁当とスイーツ、ビールを買い込んで俺はダイニングのテーブルについた。三人だとそう感じないのに、一人だとこの部屋はとても広く感じる。けれど、もう少ししたら元気いっぱいの『ただいま』が聞こえるのだと思うと微笑ましい気持ちになる。そんなことを考えながら弁当を食べ終えたところで、鍵が開ける音が聞こえてきた。ほら、柊太くんの元気な声が――聞こえない。その代わり、ぼそっとした「ただいま」が聞こえてきた。 「茜さん、お帰りなさい。柊太くんは?」 「実家で夕飯を食べていたら眠くなってしまって、そのまま泊まることになった。金曜だから、明日の朝には実家に行く予定だったしな」  そういえば、今日は金曜日だった。土日に茜さんの実家に泊まっていることは聞いていたのに、いざとなると寂しく感じる。この家に突撃したのがこの前の日曜だったが、あれは俺が挨拶に来るからと早めに柊太くんを迎えに行ったり、あれこれ準備をしてくれていたのだと今になると分かる。部屋に入ってきた茜さんを見て、俺は目を瞬いた。 「もしかして、茜さんお疲れ?」 「ああ……そう言われると、そうかもしれない。帰り際に、職場でトラブルがあって……自分の仕事じゃないが、フォローしないで帰れる状況じゃなかった」  そうそう。茜さんは一見無表情だけど、面倒見がよい人らしい。柊太くんとのやり取りを見ていると、それが良く分かる。どうして血のつながらない柊太くんと二人で暮らしているのか、前の奥さんがどうなったのか、その辺りの事情は分からないままだけれど。一緒に暮らして数日、思った以上に居心地が良くて自分が心配になる。このまま、何かあって出ていけ、と言われたら――立ち上がれるだろうかとか、そういった点で。 「なるほどなるほど。ちなみに、茜さんは甘いものって大丈夫?」  好きな方だが、とようやく茜さんがネクタイを取りながら怪訝そうな目でこちらを見てきた。ふっふっふ、今日は俺の大好きなコンビニスイーツの一つ、プリンケーキを茜さんの分も準備済みである。リビングの三人がけのソファに座った茜さんの分の、コーヒーとスプーンも用意する。 「俺は疲れた時、甘いもの食べると元気出るからさ。茜さんがお腹いっぱいだったら明日の朝にでも食べれば良いからね」  初日は頑張って敬語を使っていたものの、割と早い段階でくだけた口調になった。茜さんが気にしていなさそう、というのが一番大きい。これでも、頑張って空気読んで生きているので、あまり気を遣わなくていい相手というのがめずらしくて、どこまで気を抜いていいのか、ダメなのかの力加減が難しい。  とにかく俺がコーヒーの入ったマグカップを渡すと、不意に茜さんが笑った気がした。 「ちなみに、このプリンケーキ。今、一番のお気に入りなんだ。二つ残っていたから、買い占めちゃいました」 「……律のオススメ、ということか?」  やっぱり、茜さんの口元が微笑んでいる。……男前が微笑んでいる……思わず写真で残しておきたいくらいの格好良さに自分の携帯端末を探して、こういう時に限ってポケットにない自分のうかつさを呪いそうになる。唐突に気恥ずかしくなり、顔に熱が溜まっていくのを感じながらも頷くと、「……いただきます」とぼそっと茜さんが呟いた。 「あっ、明日休みならさ、茜さんも飲める? ビールも、二人分バッチリ買ってあるよ」 「甘いものにビールでは俺が太りそうだし、夜中に柊太が帰りたくなったら迎えに運転するかもしれないから……明日の楽しみにしておく」  了解と返しながら、俺はまたソファから立ち上がって自分のビールを用意する。何か、身体を動かしていないと、変なことを言ってしまいそうだからだ。こんな風に楽しい気持ちで誰かと二人きり、なんて経験はほとんどないから、気恥ずかしい。茜さんがテレビをつけると、ちょうど一年ほど前に上映された映画が流れ始めた。コミカルなアニメで、続編の上映が近いからその記念放送らしい。ちゃっかりと冷蔵庫に鎮座していたビール缶を取り出し、日中の俺の居場所になりつつある、一人掛けソファへと戻った。  座ろうとしたところで、ちらりとこちらを見てきた茜さんと視線が合う。「どうかした?」と尋ねると、「ここからの方が、テレビは見やすい」と返ってきた。ここ、というのは三人掛けソファに座っている茜さんの真横……隣だ。 「お……お邪魔しても、良いのでしょうか」  どうぞ、と茜さんが小さく笑った。意外と、よく笑う人なのかもしれない。ビール缶を握りしめながら、茜さんの隣に座る。割とぴったりと近くにいるのに、その距離感が気持ち良いと思える自分に戸惑った。 「茜さんは、俺のこと……オメガの男って、気持ち悪くない? 大丈夫かな」 「気持ち悪い……? 何故そうなる」  早速プリンケーキを口に運ぼうとしていた茜さんが、驚きながら俺を見てきた。そのリアクションに俺も驚く。 「ほら、俺って体つきも普通の男だし、顔も全然可愛い系じゃないでしょう。オメガで男っていう存在自体が、受け入れられないって人も、いるから」 「受け入れられないのなら、最初から律との結婚を承諾したりしない。同性の俺から見ても心配になるくらい綺麗だと思うし、律といるのは心地良いと感じる。オメガだから受け入れられないとか言う人間は、自分自身に何かしら問題があるか、番いがいるかじゃないのか?」  軽く眉根を寄せながらそう返してきた茜さんの言葉に俺は更に驚き、手に持っていたビール缶を取り落としかけた。 「別に脅迫されて、律との話を承諾したわけじゃない。……承諾した理由を上手く説明するのは、難しいのだが」 「あ、ありがとう。理由とか、そんな……大丈夫というか。こんな風に言ってもらえるなんて、思っていなかった」  冷たいビール缶を握っているのに、手のひらにまで熱がどんどん集まってくる。裏切る前提だから問題ないとか言っていたから、てっきり嫌われているのかなとすら、思っていたんだ。  こういう返事で良かっただろうか、と悩んでいると、俺の手と同じくらい熱くなっている茜さんの手のひらが、俺の頭に触れてくるのだった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!