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 自身の腕にその頭を預け、微睡みの中にいる桐弥の寝顔を見つめる。漆黒の艶やかな髪が、白く滑らかな肌によく似合う。一見すると細く華奢な体躯だが、踊りで鍛えられたしなやかな筋肉がほどよくついている。  またその中身は、身体ばかりが大柄な自分よりずっと強いことを、恵治は知っていた。恵治にはその強さが羨ましく、妬ましくもあった。だからこうしていると、美しいその全てを、支配したい衝動に駆られる。  恵治はそっと、両手をその細い首に添え、耳元で囁く。 「なあ桐弥、お前は、どうしてそんなに美しいんだ。このまま……永遠に俺だけのものにしたくなる」  ほんの少し、首に触れた両手に力を入れると、桐弥が身じろぎして目を開ける。 「け、けいじ……」 「すまん、起こしたか」  恵治は、慌てて両手を引っ込めると、短く切られた黒髪を優しく撫で、絶頂を迎えた後の、心地好い倦怠感に浸りながら、遠い記憶を手繰り寄せた。  彼に初めて会ったのは、まだ幼い頃。亡き祖母が習っていた日本舞踊の発表会でのことであった。祖母が出るというその舞台には何の興味も無かったが、帰りに喫茶店でパフェを食べさせてもらえるのが楽しみで、大人しく両親に連れられて見に行ったのだ。  大人達の踊りが続き、夢の世界に誘い込まれそうになった時であった。  自分と、さほど年の変わらない踊り手が登場した。 「すごい……」  彼は、その小さな身体で、その場を圧倒した。睡魔に襲われていたはずの目を見開き、食い入るように舞台を見つめた。演目が終わると、見ていただけの自分も、何故か心地よい疲れを感じた。  その後、祖母に会いに楽屋を訪ねたら、その子に声を掛けられた。 「こんにちは、きみもみてくれたの」  にこにこと、人懐こい笑顔で、そう尋ねられた。 「あ、きみ、すごかったよ」 「ありがとう。ぼくはすずきとうや。おとうさんとおかあさんが、おどりのせんせいなんだ」 「ぼくは、ふかみけいじ。きょうは、おばあちゃんをみにきたんだ」 「けいじくん、おどり、やってみない?」 「ぼくが?」 「うん、たのしいよ」  それからは、祖母と共に稽古に通った。桐弥とは、稽古場で会えたり会えなかったりしたが、やってみれば日本舞踊は楽しかった。しかし三年後に祖母が倒れ、そのまま帰らぬ人となって以来、稽古場に行くことはなかった。稽古場は電車を乗り継いだ先にあり、小学生が一人で通うことはできなかったし、両親は共働きで、平日に行われる稽古に付き添うことができなかったのだ。  それから恵治は、踊りを忘れるかのように、野球に打ち込んだ。ちょうど級友から、地元のチームに誘われたのだ。野球の練習は家の近所で行われるし、少し遠くへ行く試合は日曜日に行われることが多いため、両親の仕事に影響しないことが、決め手となった。  中学に入る頃にはすっかり野球一筋になり、日本舞踊のことは頭から消えていた。  しかし、恵治の前に再び日本舞踊が現れた。正確には、鈴木桐弥に再会したのだ。  高校は、野球の強豪校を選んだ恵治だが、県内、ひいては引っ越してまで全国から集まる天賦の才には勝てず、レギュラーになることさえできなかった。  学力に見合った大学を受験して入学したら、同じ学部に桐弥がいたのだ。 「深見君って、日舞やってたよね」  最初のオリエンテーションで自己紹介をした後、向こうから声を掛けてきた。 「鈴木……桐弥?」 「僕のこと、覚えてない?」 「いや、覚えている……というか思い出した」 「今まで、ずっと忘れてたの、ひどいなあ。あんなに仲良かったのに」 「すまん、その……」 「ごめん、冗談だよ。お祖母様が亡くなられて、お稽古に来れなくなったってのは聞いてたし、野球を始めた話も聞いてるよ」 「祖母のことはともかく、野球のことまでか」 「母のお弟子さん達も、深見さんが亡くなってお稽古に来れなくなったお孫さんが気になってたみたいでね。君のご近所さんにも、何人かいるんだよ」 「そ、そうか」  それから二人は、互いに良き友人であり続けた。  恵治は、野球で上を目指すことは諦めたが、サークルに入ってそれなりに楽しみ、桐弥は学業の傍ら、日本舞踊を続けていた。  桐弥は、日本舞踊の名取りになっていて、自宅でも稽古ができるようにと、学生の一人暮らしには贅沢な、広い部屋を与えられていた。恵治の狭い四畳半のアパートより遥かに居心地が良く、次第に恵治は、桐弥の部屋に自分の荷物を増やし、入り浸るようになった。  恵治は、桐弥と再会してから、再び日舞を習おうという気にはならなかったものの、舞台を見に行くようになった。  今日は、年に一回ある稽古会の舞台で、初めて恵治が桐弥と出会った舞台と同じものであった。つまり、桐弥の両親が主催するものである。  舞台後、楽屋に招かれていた恵治が桐弥を訪ねると、近くに若い女性がいた。紺色の清楚なワンピースに、腰まで伸びた長い髪。ほんのりと頬を染め、桐弥を見つめる瞳には、恋の熱が籠もっている。 「先日お話したお嬢さんです。是非、若先生の舞台を見たいというものだから……」  年配の着物姿の女性が、桐弥に紹介する。おそらく、弟子の一人だろう。桐弥は、名取から師範になったばかりで、大学の傍ら、母の教室を手伝っている。師範になってから、弟子達からは「若先生」と呼ばれているのだ。 「ありがとうございます。お綺麗な方ですね。若い方に興味を持って頂けるのは嬉しいです」  まんざらでもない様子で答える桐弥に、恵治は何故か胸がざわめき、苛立ちを感じた。  恵治は結局、楽屋には寄らなかった。日ごろは気兼ねなく入り浸っている桐弥の部屋には行く気にならず、ほとんど殺風景になった四畳半のアパートに、珍しく帰宅した。  薄い万年床の布団に転がり、天井を見つめる。天井の染みが、次第に人の顔に見え、それが襲いかかるような錯覚に陥る。思わず、目を閉じた。  その時であった。  鍵を開ける音がして、玄関から人の気配が漂う。 「恵治、どうしたの。楽屋に来ないしうちにもいないから、心配したよ」  桐弥だった。  顔を見るまでも無く、桐弥だと分かっていた。この部屋の鍵を持っているのは、自分と大家でなければ、桐弥しかいないのだ。 「俺が、自分の家にいて悪いか」 「最近は、ここに帰ることの方が、珍しいと思うけど」  そういって桐弥は、寝転ぶ恵治の枕元に座る。  覚えの無い香りが、鼻をくすぐった。  桐弥は着物だから樟脳の匂いはいつものことだし、舞台後だから白粉の匂いもする。しかしそういった馴染みの匂いではなく、香水の匂いだ。今日の舞台でも、客席に蔓延していたものと同じ、女性が好む香水の匂いだった。
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