豪雨と一番星

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 あの豪雨から1か月。  つまりスキンケアをきちんとするようになってから1か月。安物のファンデーションでもなんだか肌が明るく見えるし、心なしか手に吸い付くような柔らかさ。 「……ちゃんとお手入れすれば、肌は応えてくれるって、本当なんだ」  満を持して、ではないけれど、あの日に買ってそのままにしてあった口紅をそっと唇に乗せてみる。  明るくなった肌のせいか、店先で試してみた時よりも口紅の色が映えて見えた。  そして今日は月末の締め日。  来るだろうと思っていたら、案の定、3魔女が書類を抱えてやってきた。 「あの、小山内さん」 「はい」  何食わぬ顔をして振り向くと、ついさっき化粧直しをしました、という容貌の魔女たちが愛想笑いを貼り付けて立っている。 「締め日で忙しいのは分かってるんだけど……これ、お願いできる?」 「あと少しなんだけど、私たち今日は急いでて間に合いそうにないの」  ちら、と彼女たちの手にある書類を見て、言葉通り「あと少し」のようだと判断する。 「分かりました」 「いつもありがとう。あの、これお礼と言っては何だけど、良かったら」  いつもなら「ありがとう」のあとは「この埋め合わせは必ず」が常套句なのに、魔女たちはそれぞれにかわいらしい柄の小さな紙袋を差し出した。 「なんですか?」 「いいからいいから、いらなければ捨てて」  それじゃ、と去ってゆく魔女たちを見送って、私は首を傾げながら紙袋を開けてみる。 「ーーーーー 試供品」  ブランドは様々なシャンプーやスキンケア、ファンデーションの試供品。  以前の私なら、必要のないものをくれたのか、とスルーしていただろうけれど、今はなんだかちょっと面白く思えて、つい笑ってしまった。  彼女たちはいったい何を思って突然これをくれたのだろう。  なんにしろ、試してみようと若干ワクワクしながら「ありがたくいただきます」と口の中で呟いて、バッグに仕舞い込む。  定時で風のように去って行った3魔女を後目に、頼まれた仕事を片付けて18時半にはフロアを出た。  エントランスを出るところで、後ろから声をかけられる。 「小山内さん」  この、耳障りの良い声は。 「ーーーーー 志賀さん」 「お疲れ様。今帰りですか」  大股で隣に並んだ志賀さんに問われて、「はい」と頷く。 「僕も今日は電車なんです。駅まで一緒に歩きませんか」 「はい」  並んで駅へと向かいながら、志賀さんが口を開いた。 「あれからも僕は何度か総務課へ顔を出したんですけど、小山内さんとはまったく目が合わなくてなかなか声をかけるタイミングがありませんでしたよ」  ふふ、とおかしそうに笑う志賀さんに、私は重大なことに気づく。 「あっ!私、何のお礼もしてなくて……!ごめんなさい!」  慌てる私に、「いやいや」と軽く手を振って、志賀さんはふと気づいたように私を見つめた。 「な、なんですか」 「見るたびに思ってたんですけど……最近、キレイになりました?」 「ーーーーー え?」 「いや、総務課に行くたびに小山内さんを見て……なんだかだんだんキレイになってきたなあって……」  どこか照れたように首の後ろを擦りながら言う小山内さんの横顔を、呆けたように見ていると、彼が突然顔色を変えて私を見た。 「あ!これってセクハラですかね!?」 「え、あ、ええと……そう、なる場合もあります、かね」 「ですよね!?うわあ、どうしよう。全然そういうつもりじゃなくて素直に思っ……てても失礼か、いや、ほんとすみません」  焦る様子が、あの豪雨の夜のスマートな彼とは別人のようで、思わず笑ってしまう。 「え、え?小山内さん?」 「いえ、セクハラになる場合もありますから、以後気を付けてくださいね」  笑いながら言うと、志賀さんはなんだか腑に落ちない様子ながら「はあ」と気の抜けた声を漏らした。 「相手が不快になったら、セクハラです。……でも、私は今、嬉しかったですよ。だから、セクハラじゃないです」 「嬉しかった、ですか」 「はい」 「じゃあ……その、キレイになった理由は、僕だって思っても、いいですか」  思わず足を止めて彼を見返す。多分、鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ、私。 「うぬぼれですか」  問いを重ねてくる彼の耳が、少し赤くなっているのに気づいて、その途端心臓が騒がしく暴れ始める。 「……うぬぼれじゃ、ない、かも……」  恥ずかしくなって俯きながら言うと、志賀さんは大きく息を吸い込んだ。  それから、目元と口の端を緩めて、私にそっと手を差し出す。 「この後、ご予定は?」 「え?帰るだけですけど……」 「食事でもご一緒にどうでしょう」  私は差し出された手と志賀さんの顔を交互に見て、一つ深呼吸をしてから、その手に自分の手を重ねた。 「ーーーーー はい、ぜひ」  手を繋いで、駅への道を逸れて飲食店の並ぶ通りへ足を向けた。  ビルの隙間に沈んだ太陽が、今日最後の光をほんの一筋投げてくる。  オレンジから濃紺へとグラデーションを描く空に、一番星がぽつりと灯った。 Fin
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