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学祭が終わると、いつも通りの学生生活に戻る。
最高潮に達した賑わいが波のように引いてしまい、生徒達の間にはどこかさみしいような、虚しいような空気が漂っていた。
「なんだか全てが夢の跡って感じ」
学食の窓際の席で外を眺めながら、栗色のワンピースを着たトムはつぶやいた。フォークに巻いたナポリタンはさっきから全然口に運ばれていない。
トムが物憂げな表情で見つめる先には、色づいてきた木の葉がはらはらと舞っていた。
「いろいろ慌ただしかったもんね」
俺はサンマ定食を食べながら言った。
「でも、おかげで古き良きプリン屋さんは飲食部門で一位になったんだからすごいよ。トムの努力のたまものだね」
「それは、うれしかったけど、みんなで作り上げたものだし、僕だけの功績じゃない」
「でも、アイデアも細かな構想もトムが考えたものだよ。トムの好きなものがいろんな人に認められて、結果に結びついたんだ。誇っていいと思う」
トムは丸い瞳をぱちぱちさせて少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。春乃っちは本当に優しいね」
「優しい、かな」
「優しいよ。こんな僕を責めるでもなく、まだ友達でいてくれようとするんだから」
「トムを責めたところで、起こったことはもう変えられないし」
学祭間近に姿を消したせいか、アカシヤ先生が話題に上ることはほとんどない。アカシヤ先生が起こした事件も、警察に捕まった事実も知らない生徒ばかりだ。
代わりの先生にもすでに馴染んで、アカシヤ先生の存在は忘れ去られていくだけのようだった。
「うん、だから僕はもう間違わないよ。春乃っちのそばにいて、春乃っちを守るから」
「守られなきゃいけないようなことは、そうないと思うんだけど」
「でも、わらびくんと約束したから」
わらびとトムが一体どんな話をしたのか俺は知らない。
ただ、二人の間に共通事項ができたことは確からしい。
それが俺を守ることになっているなら、申し訳ない気持ちになった。
「なんていうか、ごめんね」
「謝るようなことじゃないし。いいの、もう決めたことなの。僕がそうしたいんだから、春乃っちは気にしないで」
「う、ん。ありがとう」
俺が言うと、トムの目にようやく光が戻ってきた。にっこり笑ってトムは言う。
「にしても、春乃っちがわらびくんとよりを戻せて、本当によかったよ。僕の目標は恋人を作って、二人にイチャイチャしてることろを見せつけることなんだ。それができなくなっちゃうなんて絶対にやだったんだから」
ようやくナポリタンを口に入れてもぐもぐ咀嚼し、トムは人差し指を立てた。
「だからもう別れちゃだめだよ」
俺は啜っていた味噌汁を飲み込んでから言った。
「うん、簡単に別れは選ばないよ。なにかあったらちゃんと話し合うから」
「それはよかった。っていうかさ、そもそも、春乃っちはあんな絵に恋人なんてタイトルつけて発表しちゃうし、わらびくんはわらびくんであんな曲作っちゃうし、結局ずーっと相思相愛なんだよね。なのに別れるとか、ぶっちゃけそういうプレイとして楽しんでるようにしか思えなかったな」
「ぷ、プレイって、違うよ。俺達にも、いろいろあったんだよ」
学祭のあと、俺の絵は一部で話題にあがっていた。
そして、わらびの作った新曲のモデルとして結びつけられ、恋仲であることが広まった。
でも、個性的な人間が集まっている校風のせいか、特別視されることは少なく、今のところ平穏に過ごせている。
「いろいろねぇー。仲直りはメイド服でさぞかし盛り上がったんだろうね」
「なっ、そん、ちっ」
かっと頬が熱くなる。トムはにやにや笑った。
「春乃っちは知らないだろうけど、春乃っちにぜひメイド服を着せてくれ! って、わらびくんが直々に頼みに来たんだよ。高級プリンを持ってね」
「は!? いつ、そんなことしたの?」
「うーん、本格的にプリン屋さん立ち上げる前かな。春乃っちから僕が総監督だって聞いて来たらしいよ。高級プリンはすごーくおいしかったし、二人の仲直りに一役買えたんだから、万々歳だね」
俺は両手で顔を覆った。
そう言われれば、メイド服の話をした時、わらびがやけに食いついてきたことを思い出す。
全てはわらびの目論み通りだったのかと思うと、恥ずかしくてたまらなくなった。
「なに? どしたの? 耳まで真っ赤っかじゃん」
どきりと胸が高鳴った。
指の間から見ると、茶色い瞳が人懐っこそうに細められた。カツ丼を手に現れたわらびは、俺の隣に腰を下ろした。
「トムになんか言われた? もしかして、エロいこと?」
「ちっ、違うから。そんなんじゃないから。もういいから」
「なにがいいの?」
「春乃っちのメイド服とっても似合ってたよーって話をしてたんだよ」
トムが楽しげに言う。カツを頬張ったわらびは目を輝かせた。
「ああ、それな。似合ってた似合ってた。古き良きメイド服、絶対、清楚で可憐な春乃に似合うって思ったんだ。ありがとな、トム」
「どういたしまして。あ、なんなら写真もあるけど、欲しかったりする?」
「マジ!? ちょーだい。データ送って」
「いいよー」
「ちょっと、待って!」
スマホ片手にきゃっきゃと盛り上がる二人についていけない。
「な、なんで写真なんかが存在するの!?」
「隠し撮り」と、トムは平然と言いながら、わらびにデータを送信したようだ。「サンキュー」と受け取ったわらびの顔はほころんでいた。
「信じ、られない。勝手に隠し撮りとか、それをもらうとか」
「だって春乃っち、絶対撮らせてくれないじゃん」
「そうそう、貴重な写真だよ。手元に置いていつでも見られるようにしとかないと。これからまたライブの準備で忙しくなって、なかなか会えないさみしい夜のおかずに最適だし」
「もうっ、わらび、最低。ほんと、最低。今すぐ消して!」
わらびからスマホを奪い取ろうとしたら、わらびの指先から離れたスマホは飛んでいった。
「なに騒いどると?」
弧を描いて飛んでいったスマホを受け取ったのは、西洋人みたいな外見の博多男子、桃村ジュエリーだった。
「桃村くん! スマホ、そのスマホを俺にちょうだい」
桃村ジュエリーこと桃村くんは、疑いもせず俺にスマホを渡してくれた。
トムの隣の腰を下ろすと大盛りのカツカレーに手を合わせる桃村くんを横目に、スマホの画面を指でタッチしたがすでに遅かった。
「わらび、ロック解除して。早く」
「えー? なんでー? っていうか、春乃は恋人だからって、人のスマホを見ちゃえる人なんだー」
「っつ……、そりゃあ、俺だってこんなことしたくないけど、でも、今のはわらびが悪い」
「春乃」
突然わらびは顔を寄せた。あまりの近さに焦る距離だ。
「それじゃあ、春乃が24時間毎日俺のそばにいてくれる?」
「は? そん、なの。無理に決まってる」
「でしょ。だからこそ、俺は好きな人の好きな写真を持ち歩くことで、春乃と会えないさみしい時間を埋めてるんだ。それがそんなに悪いこと?」
そんな風に言われてしまうと、もうなにも言えなくなる。
「卑怯だ」
「はいはい。卑怯だろうが、ずるかろうが、俺は春乃が好きなんです。それだけなんです。そんな魚ばっか食ってないで、肉も食いな」
わらびはカツ丼のカツを俺の口に無理矢理突っ込んだ。甘じょっぱい汁を吸ったカツは、柔らかくておいしい。
「ねー、なんだかんだ理由つけて、すぐイチャイチャするのやめてよ。もー」
食べることに必死になっていると、トムの抗議が飛んできた。
「仲良いことはよかことばい」
その隣でカツカレーをむしゃむしゃ頬張りながら桃村くんが言った。
「よくないよくないよくなーい! ねぇー、ジェリーだって思うでしょ? この幸せの押し売り大セールでお腹いっぱいになっちゃうの。僕も恋がしたい! 早く恋人が欲しい!」
「せからしか。恋する前に、早う食べんしゃい。せっかくのご飯が台無したい」
「もう、ジェリーのバカ! 大食らい! そもそもなんでこっちの席まで来たのさ、席は他にも空いてっ、んぐっ」
桃村くんはカツカレーのカツをトムの口に容赦なく突っ込んだ。
「ほれ。これで、お目当てのイチャイチャたい。肉うまかろう。それ食い終わったら、黙って飯ば食いんしゃい」
「んんん! んんん!」
トムは涙目で咀嚼しながら、桃村くんの肩をポカポカ殴った。
それでもどこ吹く風という感じで、桃村くんは気にせずに言った。
「仲良いことはよかことばい。二人が幸せそうで、俺は安心した」
わらびと顔を見合わせてから、桃村くんに視線を戻す。
桃村くんはふっと柔らかく微笑んだ。その春の陽だまりのような優しい笑みにつられて、俺もわらびも笑っていた。
昼食を終えると、美術棟の校舎の外までわらびを見送った。
「じゃあ、またあとで」
「うん、またあとで」
わらびは俺の身体を引き寄せると、抱きしめて額に口づけた。
笑顔で、大きく手を振って、駆けていく。
俺はわらびの姿が見えなくなるまで手を振った。
また、あとで。
待ち合わせして、買い物をして、夕飯を作って食べて、いろんな話をして、一緒に眠る。
なんてことない約束がただうれしくて、胸の奥に火が灯る。
「幸せだ」
澄み渡った十月の空を見上げてつぶやくと、日差しが目に沁みた。
いくつの季節が巡っても、同じ空の下を歩いて行ける。
どこまでも、どこまでも、わらびと一緒に。
幸せと共に。
ー完ー
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