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ロビーにて
伊織の顔を見てしまうと、多分きっと、俺は転勤なんて嫌だと思ってしまうに違いなかった。だけど大人の俺がそんなワガママなんて言ったら他の人に迷惑が掛かってしまうし、だから、朝1番の早い飛行機に乗って実家のある九州に飛んだのだ。
……荷物は業者に頼んだし、契約してた諸々のところにも解約の電話をした。後は……。
伊織、怒ってるだろうな。
飛行機の窓辺に頬杖を着き、ため息を吐く。
眼下にはまばらに浮かぶ白い雲と、その隙間から海と陸地が時々顔を出している。
実家の田舎から出て来て以来飛行機には乗って無かったから、機内ってこんなにうるさかったっけ?と、どうでもいい事を考えながら俺は気分を落ち着かせようとしていた。
何か考えていないと、頭の中はすぐに伊織の事でいっぱいになってしまう。会いたくて会いたくて、年甲斐もなく年下の彼氏に恋い焦がれてしまうのだ。
そんな煩悩だらけの頭で結局は伊織の事ばかりを思い出しており、飛行機が無事空港へと着陸する頃にはもう他の事など考えられもしなかった。
飛行機から降りて無事に手荷物を回収し、ふと空港内のロビーでスマホの電源を入れる。実家までは地元の友達が車で送ってくれるというので、到着した旨を伝える為だった。
しかし、スマホに電源が入った途端に通知を知らせる音が連続して鳴るので、俺は慌てて荷物を持ったまま壁際へと移動し、改めて画面を直視した。
「うわ……全部伊織からだ」
メッセージに留守電と、飛行機が向こうを出発した直後辺りからほぼ休みなく俺と連絡を取ろうと送られていたのだ。
俺はどのタイミングで彼に謝罪の電話をしようか迷ってしまい、その間に、突然手のひらでスマホの着信音が鳴り響いた。
「も、もしもしっ!」
迷ってる暇もなくすぐに通話ボタンを押して耳に当てると、昨夜聴いたばかりの声が鼓膜へ向けて叫ぶのだ。
『……っと出た!この馬鹿!今どこにいんだよ!』
これは、ものすごく怒ってらっしゃる。
俺は思わずスマホを耳から遠ざけてしまい、また恐る恐る近付ける。
「い、伊織?……ごめんな、俺今、地元に戻って来たとこなんだよ」
『はぁ?そんなん聞いてねーし!なに勝手に居なくなってんだよ!話しするっつったよな?』
「そうだけど……本当にごめん。俺が全部悪いんだ」
『……意味分かんねぇっすよ。ちゃんと納得いく説明して』
いくらか声のトーンを落としても、伊織も感情までは隠しきれないかったみたいだ。
俺は背中を壁に預けながら、深呼吸をして事の顛末を話す。
「……本当に、騙すような事してごめん。……俺が今日出発するのは、実はもう決まってた事なんだ」
倉持部長から転勤の話しをされた時、今日の航空チケットも同時に渡されていたのだ。
伊織に会うと決心が鈍るというのもあったが、こっちの方が早くに家を出た、本当の理由である。
急な話しだが、九州の支社から早めにプロジェクトを始めたいという催促があったらしい。また、引っ越し費用や移動費は全て会社が負担する決まりなので、ケチなウチの社長は、近場最安値の飛行機チケットを勝手に取って俺に押し付けたのだ。こんなところも世間一般から見たらブラックだと思うかもしれないが、俺はもうそんな会社の扱いに慣れてしまっていたから。
1人暮らしだし、独身だし、今までは家と会社の往復しかしていなかったから、休みの日にたっぷり寝れば体力も気力も回復していた。それに週末は課長主催の飲み会があって、タダ酒が飲めていたから、それも会社を辞めたくない理由の1つだったのだ。
でも、今は違う。伊織という大切な存在が出来たからこそ、仕事に対する迷いが出て来てしまっていた。だけど彼を理由に、仕事を疎かにする訳にもいかない。
「……伊織、理不尽って思うかもしれないけどな、ほとんどの上司は今よりもっと厳しい社会で働いて来たんだ。だから彼らにとっての当たり前が、今の若いお前達には理解出来ないのは良く分かる。けど……お前らからしたら、俺も古い世代の人間なんだよ。頭では分かっていても、気持ちが追い付いていない」
『……なにが言いたいんすか?』
「現代社会に馴染めてない会社を恨むなって事。俺が転勤になったのはちゃんとした理由があるし、こんな朝早い飛行機に乗ったのも理由があるんだ」
でも、と俺は電話越しに微笑む。
「そんな会社のルールを全部投げ出したい程、俺は伊織を優先したくなる。だからお前に会わずに飛行機に乗った」
『晴弘さん……』
「俺、お前と別れる気なんてねーから。連休はそっちに会いに行くし、プロジェクトが無事終わったら、移動願い出してまたそっちに戻る。だからそれまではさ、俺の事、待っててくれるか?」
伊織が頷いてくれる自信があった訳じゃない。だけど、俺はそうであって欲しいと願っていた。
その希望に応えるかのように、スピーカーを通して彼の声が聞こえて来る。
『……当然っすよ。俺の方こそ、アンタを手放す気なんてさらさらねーし。……いつまでも待ってるからさ、絶対戻って来て下さいね』
「ん、約束する」
『あと、なんかあったら絶対報告する事』
「分かった」
『離れててもアンタの声、聴きたいからさ……仕事忙しくても、週末くらいは連絡して』
「了解。俺も、仕事忙しい時程お前の声聴きたくなるから……絶対に電話するよ」
穏やかで愛しいやり取りが続いた後、伊織がいきなり無邪気に『それと、』と付け加えて来る。
『今回の事、まだ許してねぇから。次会った時は覚悟してろよ』
伊織に散々言われた言葉なのに、なんか、この台詞も懐かしく感じる。
俺は小さく笑うと、それも覚えとく、と返した。
「伊織、」
『ん?』
「愛してる」
今は言葉でしか伝えられないけど、俺も次、彼に会った時はこの気持ちを全身で伝えるつもりだ。
伊織も向こうで笑ってるのか、同じ言葉が愛情たっぷりに俺の耳を包み込む。
『俺も……晴弘さんを愛してる』
好きよりも最上級の信頼が含まれる、たった一言。
それでも俺達には、それで十分事足りた。
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