第一章 獅子と鷹(5)

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第一章 獅子と鷹(5)

 幼い頃に一度、父に連れられて、鷹神の街(ジェバ)の大祭に出かけたことがある。  ティスからは川を遡ったところにあるその街は、どこも古めかしい雰囲気を身にまとい、人々の動きは緩やかで、ビール壷を背負わされたロバがぽくり、ぽくりと蹄の音を響かせて通り過ぎる、どこか白昼夢の中にいるような眠たげな場所だった。  父の仕事は、建築職人だ。  ひっきりなしに仕事の依頼はあり、町人たちの中では中の上ほどの収入だっただろうが、まだ働き手にはなり得ない多くの幼い子供たちを抱え、楽とは言い難い暮らしをしていた。そんなだから、家族で旅行に出かけたのはその時のただ一度だけで、それも、嫁いでいった姉の夫になる軍人からのご祝儀を使ってのことだった。  ジェバの古い大神殿はとても素晴らしく、神殿の修繕にも関わって来た父にとっては、一生に一度はぜひ見ておきたいものだったらしい。  参道の両脇に建つ縁日を通り過ぎ、神殿の前に立つ一対の立派な鷹の像を見た時から、父は明らかに家族のことなど頭から吹っ飛んでいた。すっかり夢中になってあちこち歩き回るのに辟易(へきえき)して、母は、縁日を見てから宿に帰ると言い残して下の子供たちとともに早々に引き上げてしまった。父についていくことにしたのは、一番年上のヘリホルだけだった。書記学校に入ったばかりで文字を習っている最中だったし、母や弟妹たちと違って少しは碑文も読めたからだ。  太い柱を所々色の禿げた柱を見あげ、はるか昔の王たちの名前が刻まれた壁を撫で、お香の香りが焚きしめられた薄暗い回廊を歩いているうちに、いつしか父とはぐれてしまっていた。辺りからは参拝客の姿が消え、代わりに厳めしい顔つきで歩く、真っ白な服を着た神官たちの姿しかなくなっていた。道を尋ねようにも、神官たちはいかにもとっつきにくく、話しかけることがためらわれた。それに、神官たちの目の前を通り過ぎても叱られないのなら、ここはまだ、入ってもいい場所に違いない。  柱を辿り、ずんずんと奥へ歩いていくと、やがて美しい庭園が現れた。  花に彩られた四角い池がある。鳥たちの声が響き、大きなアカシアの木が枝を張りだしている。その向こうに、小さな部屋が暗い入口を空けて待っている。日陰を求めて、吸い込まれるようにして中に入った。  強い、乳香の香りがした。  床には花が散らされ、薄い亜麻布が目隠しのように幾重にも重なって垂れ下がっている。  「だれ?」 声が聞こえるような気がした。呼んでいる声。  「なんて言ってるの」 布をめくると、黒い、つるりとした鷹の像が現れた。ぽかんとして、ヘリホルはしばし、その像のよく磨かれた両の眼と見つめ合っていた。  (……。) 風の囁くような声が耳元に何かを告げた。入り口から吹き込んできた風が亜麻布を大きくめくりあげ、床に落ちていた花びらを舞い散らせる。風の中でヘリホルは、鷹の像を見つめたまま、床にぺたりと座り込んだまま動けないでいた。  その後のことは、全く記憶に無い。  確か、神官に連れられて神殿の入り口まで連れ戻されたはずなのだが、父にも母にも叱られた記憶は無く、神妙な顔をした両親とともに翌日、ジェバを後にした。  ずっと昔、もう十年近くも前のことだ。  すっかり忘れていたことなのに、…なぜ、今になってこんなことを思い出すのだろう。  目を開けると、辺りはすっかり真っ暗になっていた。いつの間にか、岩壁にもたれたまま眠ってしまっていたようだ。  体の上には厚手のマントが被せられている。セティの姿は見当たらないが、荷物はそのままだ。先に目を覚まして、どこかへ出かけているのだろう。  大きく伸びをして凝った体をほぐしながら、ヘリホルは、昼間掘った穴の中に溜まっている水を確かめた。最初は泥混じりだった水も、今は上のほうが透き通り、美味しく飲めそうだった。  両手ですくいあげ、喉を潤す。  (…美味しい) それに、とても冷たい。元気が出て来たところで、彼もおそるおそる、辺りの散策に出かけた。迷ってしまいそうだったから、振り返れば荷物が見えるあたりまでの範囲だ。  それでも、夜の沙漠は目印が何もない。何度も元の場所に戻っては、自分が道を間違えていないことを確かめながら歩く。セティたちはよく、こんなところを迷いもせずに目的地にたどり着けるものだ。  小石を踏む足音がして、振り返るとセティが、こちらに向かって戻って来るところだった。  「どうした? 用でも足したいのか」  「いや、そういうわけじゃ…」 言いかけたヘリホルは、セティが片手にぶら下げているものに気づいて、思わず青ざめた。  「セティ、…まさかそれ、食べるのか」  「ん?」 彼は、首を掴んだままの大きな蛇を持ち上げて見せた。「そうだが?」  「そうだが、って…。」  「そうガタガタ言うなよ。まったく、お前と来たらトカゲも蛇もダメなのか。女じゃあるまいし」呆れたような顔だ。「蛇なんざ、牙と毒袋さえ抜いちまえばどうってこたぁない。今日の晩飯だ。」  「はあ…。ここの料理は、どうも慣れられそうにないよ」 荷物のところまで戻ると、セティは岩の間から乾いた苔を集めて小さな火を起こした。器用に皮を剥いて内臓を取り出した蛇を火の側の平たい石の上に叩いて延ばし、焼いた岩の熱で焼こうとしている。  「こいつは、ちょいと塩っ気を加えると美味いんだ」 言いながら、荷物から取り出した岩塩を短剣で削って散らす。  「あんた、こいつがダメなら干し肉でも齧っとけ。塩を食わないとヘバりやすくなるからな。我慢せずに水も飲めよ。あるうちにな」  「…随分と、気を使ってくれるんだな」  「そりゃあ、あんたが居なけりゃお宝に辿り着けないからなぁ」 それは本当だろうか、とヘリホルは疑い始めていた。文字が読めないにしても、地図に描かれている文字はもう、全部教えてしまった。頭の良いセティのことだから、地図の内容などとっくに覚えてしまっているだろう。むしろヘリホルが居ないほうが、早く目的地に辿り着けるのではないのか。  けれど、怖くて問いただすことが出来なかった。  もしかしたら彼はまだ、そのことに気づいていないだけかもしれないし、この”呪われた谷”の呪いを引き受けさせる身代わりにするつもりだというような、もっと恐ろしい答えが返って来る可能性もあった。だが、ほんの少しだけ、期待もしていた――彼自身、認めざるを得ない。  このセティという得体のしれない若い盗賊に、いつしか親近感を持ちつつある自分がいる。  「……。」  「ん? どうした。」 自分でも不思議なことに、ぽつりと、口をついて出た。  「あの時、くじを引かされたのは居なくてもいい者だけだった…」  「くじ?」  「神託の間で引いた、くじだ…。」 話し始めたとたん、自分の中で押し殺そうとしていた感情が、堰を切ったようにあふれ出してきた。ずっと考えるまいとしていたこと。その可能性に薄っすら気づきながら、誰にも言えず胸に仕舞い続けてきたものだ。  この遠征に行く文官を決める時、文官たちを集めてくじを引いた。  危険な沙漠に出かけるのだから、まだ妻を持たず、父の唯一の息子では無く、体力のある若い者だけでくじ引きをする。そう説明されて、一度は納得した。けれど当日、神託の間に出向いた者は町民の師弟ばかりで、神官や貴族の家の若者も、親族に有力な高官がいる若者も、何故か来てはいなかった。そして、その他の何人かも、当日、欠席の理由が告げられた。  ”セネブは昨夜、突如として高熱を発し選を外れた。”  ”カカラーは婚約が決まったので除外する”  ”ウァーイブラーは祖母が亡くなったので、今朝のうちに隣町の両親のところへ戻っている” それらのどこまでが本当だったのかは、知る由もない。  高熱を発したはずのセネブは、その日の夕方に街はずれでこそこそしているところに出くわし、顔を合わせたとたん、なぜかばつが悪そうな顔になってすぐに去って行ってしまった。カカラーの婚約は本当だったが、その婚約は慌ただしく決められたもののようで、相手の女性は、まだ十歳にも満たない幼い少女だった。ウァーイブラーは、それきり、役場に姿を見せなくなった。  賄賂を払って選から外して貰ったのだ。  そう気づいたのは、出発も間近に迫った日のことだった。  けれど、決まってから騒いだところで、自分の立場をまずくするだけのことだった。証拠も無かった。さては怖気づいたから駄々をこねているのだろう、と、上司たちに言われるのが落ちだった。  たとえ捨て石になったとしても痛くも痒くもない存在、それが、自分が選ばれた理由なのだ。  神託などではない。――これは、…人為的な策略の結果だ。  「私には姉がいる。七つ年上で、街の衛兵に嫁いで幸せに暮らしてる。しばらく会っていないけど、姪はきっと大きくなっただろうな。…一番上の弟はまだ、書記学校に通ってる。成績は悪くなかったから、卒業すればどこかへ就職出来るだろう。その下の弟たちと、妹たちはまだ、カーくらいの年だよ。父はまだ仕事が出来ると言っているけど、もういい年だし、そろそろ楽をさせてやりたいと思っていた。私の安月給じゃあ家も建てられなくて、せめて嫁を取れるようになるまでは稼ぐって、言ってくれていたんだ。」  「おいおい、どうしたんだ急に。遺言みたいなこと言い始めて」  「生きて帰れる気がしないんだ。もし鉱山を見つけられたとして、…そのあと君から逃げ出してオアシスまで辿り着けたとして、私にまだ帰る場所が残されているかどうか」  「逃げ出す、って。…あー、まあ、悪かったよ。最初に脅したのは悪かったって。俺ぁそんなに極悪非道なほうじゃないし、同業者以外は滅多に殺さないぜ? そう…滅多に」  「君に殺されるならまだマシさ」 滲みかけた涙をこらえ、ヘリホルは唇を噛んだ。  「私は最初から、生きて帰ることなんて期待されていないんだ。坊ちゃん育ちで世襲の知事殿が、思い付きで妙なことを言い出すのは、いつものことだ。実際に統治をしてる左官や右官は、形だけ彼の言いつけに従っておけば何も文句は言われない。『仰せの通り調査隊を送りましたが、盗賊に襲われ全滅致しました。』…実態はどうあれ、そう報告だけ出来ればいい。気まぐれな州知事殿のことだ、それであっさり諦めるだろう。いや、もう言いつけたことなど忘れているかもしれない。私の生死など問題ではない。むしろ、任務に失敗してくれたほうが厄介ごとが増えなくていいと思っているかもしれない」  「だったら尚更、生きて帰って目にもの見せてやるべきだろうが。堂々と帰って言やぁいいだろ。『沙漠の奥を隅々まで探しましたが、見つかりませんでした』ってな。で、そんなクソ職場さっさと辞めろ。読み書き出来るんなら、別の雇い口だってあるだろうが」  「…セティ」  「家族がいるんだろ? 生きる理由があるんなら、まだ死ぬ時じゃねぇんだよ。」 赤い髪が、無法の民にしては整った顔立ちが、ゆらめく炎に照らされる。低く押し殺した真面目な声で、男は言った。  「ここじゃあな、溜息ついたぶんだけ命が逃げる。西の地平が近いから尚更な。必死で息して無ぇと生きていられねぇんだ。無理だと思ったらその瞬間に立っていられなくなる。――西の国に、引きずられんなよ。」 初めて、名を呼んだ。  その瞬間、何故だか、ぞくり、とした。  いつもと少し違う声のせいか。それとも、この男に親し気に名を呼ばれる日が来るなどとは思っていなかったからか。  いや――。  「食ったら、夜明けまでもうひと眠りして出かけるぞ。この谷沿いに北へ向かえば、多分どっかに昔の水場の跡がある」 ぼうっとして頷きながら、実際のところヘリホルには、セティの言っている内容は半分しか聞こえていなかった。  何日も赤い大地をさ迷って、おかしくなってしまったのだろうか? まさか、そんなことがあるはずもない。  最初に遭うよりずっと以前から、この男のことを知っていた、などと。  日の出とともに彼らは再び起き上がり、荷物を背負って谷底を北へ向かって歩き始めた。  眠りは浅く、頭のほうにはほとんど足しにはならなかったが、身体のほうは休息のお陰で軽くなっている。谷はどんどん深くなり、それまでは時折見つけられた小動物の足跡も見えなくなった。セティは、時々立ち止まり、足元の水の流れたような跡を確かめている。  「ここは、ずっと昔には川だったのかもしれねぇな。水が流れた跡の岩はこんな風に(えぐ)れる」  「落書きがある。ちょっと待って」 近くの岩の陰に鋭く刻まれた文字に気づいて、ヘリホルは駆け寄った。「…メス、の字だ。人の名前の一部だろうな。金属製の道具で彫られてる。古い型の文字だ」  「いいね。つーことは、この辺りに水場の跡でもあれば完璧だな…おっ」 砂に埋もれて転がっていた壺の破片にに気づいて、セティはサンダルの先でそれをひっくり返した。「ますます、当たりくさくなってきたぜ? おい、ヘリホル。地図で水場の一番近くにあるものは何だ?」  「ええと…『宿場』だ。その奥に『ロバの(とどま)り場』がある…」  「ふん、つーことは岩を掘った横穴かなんかだな。どうせコウモリが住み着いてやがる。昨日、妙に沢山のコウモリが飛んでる辺りがあったんだ。行ってみようぜ」 谷から続く横道を、崩れ落ちてくる石に気を付けながら進む。  「おっ」 突然、声を上げてセティが走り出した。「また壷だ。火を燃やした跡もある…日干し煉瓦もあるぞ。」  そこは、岩の合間の広場のような場所だった。広場を取り囲む岩壁に、たくさんの横穴が一面に掘り込まれている。砂に埋もれかけたそのうちの一つを覗き込むと、中に小さ素焼きのランプが一つ、それに朽ちた茣蓙(ござ)の切れ端が忘れ去られたように落ちていた。ひんやりとした空間の中には、コウモリかトカゲか、小動物の糞が点々としみついて、カビた古い空気が淀んでわだかまっているように感じられた。  (まるで墓地だ…) ぞっとしながら、彼は身を引いた。この狭い岩の穴ひとつに、一体、何人が寝泊まりしていたのだろう。鉱山が使われなくなった後、ここにいた人々は皆、どこへ行ってしまったのだろう?  「おーい。何してる、先へ行くぞ」 そんなヘリホルの感傷など無意味だというように、セティは一人でずんずん先へ進んでいく。  「ロバの留まり場、ロバの…おっ、それらしい場所を見つけたぜぇ。来てみろよ」 呼び寄せられるままに行ってみると、岩の間に等間隔に掘り込まれたほぞが見たえた。ロバの鼻輪を繋いでおくための穴だ。それに、辺りの砂は黒ずんでいて、ロバの糞が粉々になって砂に混じっているように見えた。  「ふふん、完璧だな。ここまで来りゃあ、あとは本命のお宝の入り口を探し出すだけだぜ。あとはあんた次第だ。どっちだ?」  「ちょっと待ってくれ。ええと、地図の方向は、こうだから…」 まさか本当に、手がかりが見つかるとは思っていなかった。高鳴る胸を押さえながら、ヘリホルは、辿って来た道と地図とを重ね合わせる。  ロバの留まり場から先、谷は岩だらけの荒野に変わっている。明瞭な道は無く、長年のうちにまんべんなく散らばってしまった割れた土器の破片などが、紛らわしくあちこちに見えている。ここまで来て、方角を見誤るわけにはいけない。  真剣に何度か検討を繰り返したあと、彼はようやく、自信を持って方向を見定めた。  「…こっちだ! この先に、谷があるはずだ」  「よし、行くか。」 セティが前に立って歩き出す。いくらもいかないうちに、落書きだらけの岩間が現れた。朽ちた木片がいくらか、縄と籠の破片。縄は、踏んだとたん跡形もなく崩れ落ちてしまう。長年のうちにからからに干からびて、辛うじて形をとどめているに過ぎないのだ。  「ここが『集積場』…か? ん、坂道が続いているな。大きな石は除けられてる。この下か?」  「気を付けてくれ。その先にあるのは、『蛇の裂け目』のはずだから」 昨夜、セティが捕まえていた大きな蛇のことを思い出して、ヘリホルは少しぞっとした。もし蛇の沢山住み着いている場所だったら、どうすればいいのだろう。蛇は苦手だ。素手で掴むなど、考えたくもない。  けれど心配は要らなかった。  現れたのは、大地が左右に引き裂かれたような形をした浅い谷間で、やや緑色がかった岩壁の岩が、うろこのような模様になっている。  「ヘビの裂け目。うまい具合に名付けたもんだな。」 ぽつりと、セティが言った。「確かにヘビの腹を引き裂いたようにも見える」  「じゃあ、ここが――鉱山?」  「確かめてみようぜ。」 恐れを知らない男は、率先して谷底に向かって降りていく。砂に埋もれてはいるものの、岩には人が昇り降りしやすいよう、足掛かりとなる刻み目がつけられていた。放棄されてからの長い年月のうちに砂は容赦なく降り積もり、全てが覆い隠されている。  けれど、期待外れだった。  しばらく歩き回ってみたものの、一面の砂のほかは、時おり落ちているのみの跡のある石の破片以外には目ぼしいものも見つけられず、無情にも一日が終わりを告げようとしていた。  「チッ、こんだけ砂が溜まってると掘り出すのも面倒だよなぁ…」 セティはぶつぶつ文句を言っている。  「悪いな、期待したようなものじゃなくて」  「ま、あんたのせいじゃあ無ぇよ。宝探しはちょっと面白かったしな。」 日が暮れる前に今夜の宿を探そうと、二人は、風通しのよい丘の上に登った。空には欠け始めたばかりの大きな月が浮かび、日が暮れても辺りはまだ明るい。  とにもかくにも、鉱山は見つかったのだ。  目的を果たした以上、この探索の旅ももうすぐ終わる。このまま別れるにしろ、どこかへ置き去りにされるにしろ、セティたちと行動を共にする理由はなくなったのだ。そして別れたあとは、もう二度と会うことは無いのだろう。  ヘリホルは、思い切って訊ねてみた。  「…なあ、セティ。君は、オアシスで暮らそうとは思わないのか?」  「ん、何で」  「ここよりはずっと楽に暮らせるだろう? 父上とは違って、君はまだ、鼻も耳も無事なんだ。盗賊の顔なんて、襲われた方もいちいち覚えてやしない。君ほどの剣の腕があれば、隊商の護衛だって務まるだろう?」 しばしの沈黙のあと、彼は、意外なほど穏やかな声で、ぽつりと言った。  「…そうだな、カーにはいつか、そういう暮らしをさせてやりてぇんだが。」  「君は?」  「俺は誰かに縛られたく無ぇんだ。ここは自由だ、掟はただ一つ。『死ぬ時までは生きろ』。――それだけだ。」 沙漠の色をした髪を撫でつけて、彼はにやりと笑った。「そう言うあんただって、ここでの暮らしは嫌だろうが。」  「えっ? いや、それは…」  「そういうもんだ。人間だろうがトカゲだろうが、どいつにも、生きるのに相応しい場所がある。俺にとっては、それが此処だ。」  「……。」 そう言い切られてしまうと、何も言い返せなくなる。それに、彼の言っていることも意味も分かると思った。  沙漠を吹き抜ける自由な風のように、気まぐれに、荒々しく生きているこの男には、街のわずらわしい人間関係や法律は、きっと邪魔にしかならないだろう。誰かに頭を下げたり、雇われて食べていくことが似合うようにも思えない。彼は、たとえそれが粗末な岩穴だったとしても、自らの館の「王」であるべき人間だ。  「…そうだな、悪かった。今のは忘れてくれ。」 岩にもたれかかるようにして休みながら、彼は、目を閉じた。朝になったらオアシスを目指そう。地図が正しいのなら、オアシスへは、ここから北北東のはずだ。ロバの足で一日と半。…徒歩でたどり着けるだろうか…セティに教わった、夜に旅をする方法なら辛うじて…。  考えているうちに、いつしか眠りに落ちていた。  夢の中で、ヘリホルは誰かと会話していた。誰なのかは思い出せない懐かしいその声の主は、彼にしきりと、何かを促している。  (何? …後ろ?) 振り返った先に、ずっと遠くに立つ赤い髪の男の後ろ姿が朧げに、陽炎のように揺らいで見える。その背中に向かって、矢を番えている人影が見える。  (! セティ、危ない――) はっとして、叫ぼうとした瞬間、自分の声で目が覚めた。  「――ない…危…あれ?」 起き上がって、きょろきょろと辺りを見回した。日はもうとっくに昇り、空は明るくなっている。今まで目が覚めなかったのは、よほど疲れていたのか、目的地にたどり着いた安心感からだろうか。岩陰から這い出してみると、当たり前だが、昨夜見た場所にセティはもう居なかった。  (置いて行かれた――のか?) 荷物を探ってみると、水袋は、すぐ側に見つかった。それに食料も。ということは、少なくとも置いて行かれたわけではなさそうだ。セティはそう遠くまで行っておらず、辺りの見回りでもしているか、途中で別れたカーと合流しに行ったのだろう。またここへ戻って来るつもりだとしたら、勝手に動くわけにもいかない。  (しかし、妙な夢だったな…) まだ、胸の辺りがどきどきしている。今にして思えば、夢の中の誰かが告げようとしていたのは、セティに迫る危険だった。何故だか、あれはただの夢ではないという確信がある。あの男は強いし、この土地を歩き回るのには慣れている。そう言い聞かせても、不安だけが大きくなってくる。  我慢できなくなって、ヘリホルは待つのを止めて立ち上がった。  丘の斜面を降りようとしていた時、耳に、かすかに言い争うような声が届いた。「蛇の裂け目」とは逆方向の、奇妙な形の岩が立ち並ぶ方角だ。怒鳴っているのは、聞き覚えの無い男の声だ。嫌な予感がする。  セティは、周囲を取り囲まれて丸腰のまま、腕組みをして立っていた。うんざりしている様子だ。  「だから、何も無ぇっつってんだろ…。知らねぇよ、財宝とかそんなもん」  「嘘をつくな! お前らがコソコソ、この辺りで何かを探し回ってたのは知ってるんだぞ。言え、でなきゃこいつの首は体と泣き別れだぜ」 怒鳴っている男の太い腕はカーの首に回され、少し力を籠めれば細い少年の首など折れてしまいそうに見えた。中ば中吊りにされたまま、つま先立ちの少年は泣き声になっている。  「す、まねえ、アニキ…」  「いいや。お前一人に別行動させた俺が悪かった」 小さく首を振り、男は、ひどく不快そうな顔で言う。  「これは、お前たちの思ってるような親父の隠した宝なんかじゃねぇよ。鉱山だよ。ずっと昔の廃鉱山さ」  「鉱山?」 数十人はいるだろう、ならず者たちがざわめいた。昨日、セティに撃退された盗賊団の生き残りが仲間を呼んで来たのだろう。たった一人を取り囲むのに、この人数はあまりにも大げさだ。  「ああ、そこの先にある谷のどっかにあったって話だ。確かめに来たんだが、何もかんも埋まってやがる上に特に何もありそうにない。それだけさ。俺にゃもう、興味のないブツだ。あとは、あんたらで好きに砂遊びでもして財宝を探すんだな。――さぁ、もういいだろ。そいつを離してやれ。」  「どうする、お頭」  「ふん、嘘はついていないようだな。」 カーの首に回していた腕を解き、男は、残忍な獣のような笑みを浮かべる。    「だが、てめぇには散々、痛い目遭わされてきたんだ。ただで帰れると思うなよ。おい、お前ら」  周囲を取り囲んでいた連中が、下卑た笑みで武器を構える。  「そいつに、思う存分お仕置きをしてやりな!」  「チッ…」 セティは舌打ちすると、視線でカーに「隠れてろ」と合図する。少年は転がるようにして頭を抱えながら脇へ逃げていく。  ハイエナたちにはもう、子鼠など眼中には無かった。目の前の赤い獅子めがけて一斉に飛びかかろうとしている。セティの牙をむいた口から唸り声が漏れた。そして、最初に飛び掛かって来た男の顔面めがけて爪を立てると、容赦なく眼球をえぐり出していた。  そこからは、まるで獣同士の争いのようだった。躍動する男の纏うゆったりとした長衣は、見る見る間に返り血に染まっていく。引っ掻き、噛み割き、殴りつけ、躍動する体は止まることを知らない。これでは、剣を手にしていた頃のほうがよっぽどマシだ。薄っすらとした笑みさえ浮かべて暴れまわるたった一人を前に、数十人の荒くれ者たちが翻弄されている。  声を上げようにも、声が出なかった。  ヘリホルには何故か、判っていた。恐れながらも目が離せずにいた。赤い風は、…凄惨なまでに、とても美しかった。  「ひ、ひいっ、無理だ…こんな奴」 ついに、恐れを為して逃げる者が現れ始めた。  「化け物だ! 沙漠の神に取り憑かれてやがる!」 いつしか、辺りには幾つもの血の匂いが漂う砂埃の中に立っているのは、セティただ一人になっていた。  手の甲に落ちた血しぶきを舐め、男は、くっくっと喉を鳴らして笑う。  「甘ぇんだよ、群れなきゃ何も出来ないクソどもが。」 それから、足元に落ちていた自分自身の剣を取り上げて、胸のあたりを押さえたまま地面に転がっている男の喉元に突き付けた。さっきカーを締め上げていた大男だ。  「這いつくばる気分はどうだい? ハイエナの親分さんよぉ」  「ま、待て。話せば判る。なぁ、おい。同じ荒地に住む仲間じゃ無ぇか。あんたを襲うのはもう止める。だ、だから、見逃してくれよ」  「それだけか?」  「は?」  「それだけか、と聞いてる。お前は王家の貢物を盗んだそうじゃねぇか。討伐隊が出ると何故判らなかった? 余計な厄介ごとをこの荒野に持ち込んだ。頭が悪ぃ仲間なんぞ、居ねぇほうがマシだ」  「ひっ…た、助けてくれ! もうしねぇよ! 頼む!」 先ほどまでの威勢はどこへやら、青い顔に油汗を浮かべて情けなく懇願する男の声は完全に裏返っている。  やはり心配などする必要はなかったのだと、ほっと胸を撫でおろそうとした時、ヘリホルは、ふと、何かに気づいて視線を脇へ動かした。  岩陰の死角に、隠れて様子を伺う盗賊がいる。  目深に頭巾を被り、荒れ狂う獣に気づかれぬよう息を潜め、殺意を殺して弓に矢を番えようとしている。  「おしまいだ」 セティが剣を抜いた。  と同時に、盗賊がその背中に狙いを定め、弦を引き絞る。  夢のままの光景。ためらいもなく、ヘリホルは叫んで駆けだしていた。  「セティ、危ない!」  「な、…」 それは、一瞬のことだった。  狙いを外した男が、とっさにヘリホルのほうに向きを変えた。それは狙うつもりもなく、ただ勢いで振り返った時に弓弦から手が離れてしまっただけなのかもしれない。けれど結果的に、矢がヘリホルのほうに向かって放たれたのは間違いない事実だった。  それが分かっていながら、避けるだけの反射神経は、彼には無かった。頭で理解するのは早かったのに、体のほうがついていかない。  全てが、瞬く間に終わっていた。  矢に射抜かれた脇腹から、血がしたたり落ちる。じんわりとした痛みが広がって、目の前が暗くなった。  「――ヘリホル!」 一刀のもとに射手を切り捨て、血に染まる剣を下げたまま、セティが駆け寄って来る。身体を折り曲げて膝をつくヘリホルを腕で支えながら、傷口を確かめ、表情を歪めた。  「急所は外してる…じっとしてろ」 言いながら自分の長衣の裾を引き裂くと舌を噛まないようヘリホルの口に押し込み、矢を掴むと、傷口を開いて矢じりを力いっぱい引き抜いた。  「ウッ…」  「カー、いるか?! 手伝え!」  「へ、へいっ」 砂に横たえられ、止血のために脇腹を縛られている間じゅう、浅い息の下でヘリホルは、霞む視界を埋める青い空を見上げていた。  身体が冷えて行くのが分かる。指先の感覚がなくなり、瞼が重たく落ちて来る。  (ここで…死ぬのか…?)  「…に行くぞ! ここからなら、…を使えば」  (すまないな、セティ…あんたに一言、お礼くらい言えたら…) 意識が遠のいた。まだ、どこか遠くで名を呼ぶ声が繰り返し聞こえていたものの、それから後のことは何も覚えてはいない。  けれど眠っている間中、いつも側に誰かの気配を感じていた。  そして、浅い夢の中ではなぜか世界は薄明るいままで、一度として夜は来なかった。  目を開けた時、顔を覗き込む、見覚えのない顔があった。黒い口髭を蓄えた、逞しく日焼けした顔だ。  視線が合うと、はっとしたように相手は身体を引いた。皮の甲冑を脇に抱え、腰に立派な剣を下げている。軍人…だろうか。  「これは失礼。まだ意識が戻らないと聞いていたものでね」  「…あなたは?」  「遠征小隊の隊長を務めているウェンアメンだ。ティスの州知事殿の命により、賊の討伐に参った。そこで丁度、どうやら同郷らしい怪我人が居ると聞いて様子を見に来てみたのだがね。」  「討伐軍…。」 寝台の上に横になったまま、ヘリホルはしばし、記憶を辿った。  「それは、クシュの商隊から、王家への貢物を奪ったという盗賊ですか」  「そうだ。知っているのか」  「ええ。私は、そいつらに矢で撃たれて…」 起き上がろうとして、脇腹の痛みを思い出し、ヘリホルは思わず顔をしかめた。  「てっきり死んだと思っていました。ここは何所なんです? 一体、どうして私はここに」  「たまたま通りかかった旅人が、応急手当をして、傷ついた君を担いでここまで連れて来たそうだ。名乗りもせずにもう発ってしまったそうだが、良い人もいるものだな。その旅人に神々のご加護がありますように。――ところでその旅人が言うには、君は州知事殿の言いつけでここへ来た役人だそうだが」  「ええ、ティスの文官です。砂嵐で従者とはぐれ、盗賊団に捕まって身ぐるみを剥がれ、もう少しで殺されるところだったんです」 言いながら、それは半分だけ本当で、半分は違うなと思っていた。「旅人」というのは、きっとセティのことだろう。彼が助けてくれたのだ。ほとんど意識の無かった間じゅう、耳元で呼びかけてくれる声が聞こえていた。  (あの沙漠を、ずっと私を背負って…) 思わず、言葉に詰まった。何も特別なことはなく、ほんの数日、行動を共にしただけなのだ。死にかけた余所者の男など、介錯してそこらに埋めて忘れてしまえば良かったのに。  何も言えずに毛布の端を握りしめているヘリホルを見て、ウェンアメンは、気の毒そうに小さくため息をついた、  「そうか。大変だったのだな。なに、もう心配は要らない。私の任務が終わる時に、一緒に貴殿も送り返して差し上げよう。」  「あり、がとう…ございます…。」 それだけ言うのが精いっぱいだった。  ろくに起き上がれないまま、ヘリホルはそのあと、何日かをオアシスで過ごした。  窓から見える豊かな緑のヤシの葉擦れの音も、オアシスを通り抜ける涼しい風も、彼の気を休めるには足りなかった。胸の中にぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感がわだかまっている。任務を果たし、無事に故郷に戻れる。本当なら嬉しいはずなのに、やり残したことがあるような、そんな気分が消えない。  そんな中、看護に来てくれる噂好きの地元の少女から、討伐隊の活躍についての噂を聞いて、セティたちの消息をいくらかでも知ることが出来たのは、ほんの少しの慰めになった。  討伐隊はオアシスの南のあたりを徹底的に捜索して賊の隠れ家を幾つも見つけたが、そのほとんどは既に戦意を失くすか、怪我をしていたという。そして途中の道で獣に引き裂かれたような死体がいくつも転がる道を見つけた、と。盗賊たちは、財宝を巡って内輪もめしたのだろう、と彼らは結論づけたようだった。  捕らえられた盗賊たちはその場で処刑され、財宝は取り戻された――けれど、その盗賊たちの中に、見事な赤毛を持つ男は居なかった。  セティは、上手く逃げおおせたのだ。  そして、傷口の痛みもずいぶんましになった頃、ウェンアメンが再び姿を見せた。  「さて、長らくお待たせしてしまったが、私のほうの仕事も終わりだ。ロバには乗れるかな? 君を送っていかねば」 暑い沙漠での仕事を終え、家族の待つ川辺の街に戻れるとあって、討伐隊の兵士たちは皆、嬉しそうだった。戻れば特別手当や褒賞も期待できる。何より、ビールが飲める。  ヘリホルは、兵士たちの手を借りてロバの背に固定したクッションの上に腰を下ろした。辿るのは、来た時と同じ「壺の道」だ。ロバを引く従者の横を歩きながら、ウェンアメンが話しかけてくる。  「詳しく聞いてはいなかったが、君の賜った任務というのは、もしかして、例の失われた鉱山の話か?」  「そうです」  「ああ。やはりか」 彼は、渋い顔になる。  「武官長どのがしきりと愚痴っておられたよ。そんなお遊び事に部下を付き合わせられん、と何度も抗議したと。すまんな、ヘリホル殿。貴殿が護衛も無しに放り出される羽目になった原因は、我々のほうにもある」  「いえ、そんな。…護衛が居ても、同じだったと思います。むしろ、居ないほうが良かったのかも。抵抗すれば、すぐに殺されていたかもしれない」  「そんなにひどい目に遭ったのか」  「…ええ、まあ」 少なくとも、「西方のハイエナ」たちのほうには、死ぬほどの目に遭わされている。  「それで、あの…財宝は、取り戻せたんですよね。」  「ああ。一足先に、護衛をつけて送り返してある。」  「盗賊団は全滅させたんですか」  「どうだろうな。まだいくらか隠れているかもしれんが、賢い鼠ほど、危険を察すればうまく身を隠すものだ。それに、深追いしてもここは連中の庭だからな。不利になるまで追い詰めることはせんよ」  「……。」  「ま、ここらは幾らでも鼠が湧いて来る土地だ。思いあがった連中には焼けた縄が必要だが、それ以外は諦めるしかあるまい。」 ぽくり、ぽくりと歩いてゆくロバの背に揺られながら、ヘリホルは、荒野の向こうの砂に霞む地平に視線をやった。  (砂嵐だ…) 遥か遠くで、空まで黄色く砂の舞い上がるほどの風が吹いている。そして、その風に逆らうようにして悠々と、一羽の鷹が空を横切っていく。  はっとして、彼は思わず視線でその先を追った。  「どうか、したかね」 ウェンアメンが不思議そうな顔をしている。  「いえ…」 綻び出る笑みを抑えきれないまま、彼は震える声で呟いた。  「お導きというのは、あるのかもしれないと思ったんです」  幼かったあの日、鷹神は瞳を通して、(きた)るべき未来の一部を見せてくれていた。  あの時は、その意味が分からなかった。そしてずっと忘れていた――  黒と赤の大地。昼と夜。生と死。過去と、…未来。  この世界では、相反する二つが結びつき、重なり合って初めて存在出来るのだということを。
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