雨と傘と、握った手

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 今日最後の授業が終わり、大学の校舎から私が出ようとした瞬間、夕日が見えない空からパラパラと雨が降ってきた。 「あ~あ、これからせっかくパパと食事なのに。駅まで歩いて行くと、服が濡れちゃうわ。嫌よね、政子ちゃん」  同じゼミで一つ年上の沙織さんは、ため息をつきながら、私の横に並んだ。可愛くメイクしオシャレなブランド品で着飾っている彼女にとって雨に濡れるということは、衣服の品質が下がるし化粧直しをしなければならないし、大変な損失だろう。 「そうですね。傘を忘れてしまいましたからとても嫌です」 「あっ、私もっ!」  教科書が濡れても買いなおすことが難しく、手荷物が濡れるとそこそこの損害が発生する私は同意の相づちを打った。すると彼女の表情はパッと明るくなった。  沙織さんは美人で派手な格好なので、校内で度々キャットファイトを繰り広げているが、なかなかの苦労人であることは同じ中学校であった私は知っている。だから、彼女の格好は生活費を稼ぐためのスポンサー集めの一環だろうと推測できるし、自分に被害が及ばない限り特に何も思わない。沙織さんにとっても私は、化粧気も男気もなく、彼女に特別な関心を持たない数少ない安全な同性のようで、時折世間話をするだけで嬉しそうにする。 「そうだ、タクシー呼ぼう!私が奢るから」 「いや、悪いですよ」  貧乏ではあるが人に借りを作るのが苦手な私は断った。しかも、小雨の中を十分ほど歩く事を避ける為だけに、タクシーに乗るという無駄には心底抵抗を感じる。  嫌そうな私の気持ちを感じ取ったのか、沙織さんは少し下を向いた。 「ええ⋯⋯そう?」 「はあ、何分、人から恩を受けても返せる能力をあまり持ち合わせていませんから。出世払いを約束できるほど自信もありませんし」 「え~⋯⋯⋯⋯⋯⋯そうだ!」  沙織さんは、パッと明るくなった表情で顔をあげた。 「もうすぐ父の日だからね。パパにプレゼントを買おうと思っているの。今度一緒に選んでくれない?」  沙織さんは嬉しそうな表情で両手を胸の前で小さく叩いた。 「はあ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯それぐらいであれば」  きっと今度の休みに高級ブランド店辺りに連れていかれるんだろうなと、少し痛くなった胃の辺りを押さえながら私は頷いた。 「良かった!じゃあ、タクシー呼ぶね」  喜々として電話をかける沙織さんを見ながら、私は沙織さんの言葉から、自分の父親の事を思い出していた。  私の父は、先月亡くなった。嫌な父親だった。いくら思い出しても、思い出したい思い出がないくらいに。  雨といえば、父親は私に煙草をよく買いにいかせた。未成年で店頭からは購入できないため、近所のコンビニではなく隣町の自動販売機まで行かされた。煙草を吸わない母に作らせたtaspoを持たされた私は、嵐だろうが深夜だろうが、自転車で煙草を買いにいかされた。その間、母は何もしない父親の世話に必死だった。  台風の中を必死に買いに行き、ビチョビチョになりながら帰って来た私を待っていたのは、すまなそうにしながら風呂を沸かす母と、当たり前のように私から煙草を奪い、酒瓶の側で喫煙する父親だった。  子供に煙草を買わせるという酷い行為を強要するくせに、それを責められる事が嫌で隣町まで買いに行かせるくらいに小心者の父親だった。診察されることを嫌がり、倒れて救急車で病院に担ぎ込まれてからあっという間に死んだ。  私にとってはろくでなしの親族でしかない男だったが、母にとっては違うらしく、若干寂しそうに過ごしている。  嫌な男の事を思い出しながらタクシーを校門側の木の下で待っている私の横で、沙織さんは嬉しそうにLINEをしている。これから会うパパとしているのか、可愛いスタンプを使っている。  沙織さんは母子家庭で育ったが、あまり母親と良い関係ではなく、中学生のときから若干ケバケバしかった。援助交際もしていたかもしれない。でも今の姿を見ていると、沙織さんにとっては会えない父親の代わりを探していたのだろう。LINEの向こうの相手はきっと彼女と血が繋がっていないだろう。でも私達はもう大人になった。沙織さんが幸せなら何も言う気はない。  呼んだタクシーが見えてきた時、雨は上がった。 「あ⋯⋯⋯⋯止んじゃったね」  スマホを鞄に入れた沙織さんが若干不安そうな声を出しながら、私を見た。きっと、私がタクシーに乗らないかもしれないと考えたのだろう。  たしかに他の人からの誘いであったら断ったかもしれない。でも、私達は死ぬまで心に悲しみの雨を降らし続ける仲間だ。濡れないように傘をさすことはできないが、側で手を握るくらいはできる。  私は、タクシーに向かって手をふり、目の前に停めた。開いたドアの横に立って、沙織さんのほうを見た。 「奥に乗ってください。私、六時の急行に乗りたいので早く車から下りたいんです」  沙織さんに手を差し出すと、沙織さんは嬉しそうに手を載せた。
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