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 こんにちは、ヒミコです。ちょっとヘコんでます。ヘコんでるというか、気分が悪いというか。  事故物件に住み始めてまだ1週間なんですが、撮れてしまいました。いわゆる心霊現象。  しかもそれが、合成かヤラセじゃないかっていうくらいにガッツリ撮れてしまったので、みなさんにご覧いただいても、信じてもらえないんじゃないかって心配するくらいです。  その動画は後でご覧いただくとして、さすがにヤバいと思ったから、早速霊能力者のところに行って、お祓いをしてもらってきました。  その霊能力者っていうのは、神仏分離する前の日本の伝統宗教を受け継いでる人で、古い自宅の狭い庭には、1200年前のものとされる小さな石の仏像が祀られていて、とにかくかなりの力のある人らしいです。  本来ならお祓いの予約は半年待ちくらいらしいんですが、無理を言ってお願いしました。  撮れた動画をその人に見てもらうと、「あなたに害を及ぼすことはないから、心配するには及ばない」なんて言われたんですが、いちおう念のためということでお祓いもしてもらいました。  神社で唱えてもらう祝詞って言うんだっけ、あれを唱えてる最中に、ところどころ、「おんわびら」なんとかかんとかいう呪文みたいなのが入っていて、奇妙なお祓いでした。  終わると、心なしか身体が軽くなったような気がしました。  その霊能力者には、自殺があった事故物件に住んで動画配信してるということを正直に話して、継続していいものかどうか相談したんですが、「やってることは感心しないが、今のところ悪いものが憑いているように見えないから、気にすることはない」と続行のお墨付きをいただきました。  でも、偉大な霊能力者が大丈夫ってお墨付きが出てるなら、これ以上撮影する意味があるのかどうか、疑問ですが。  まあとりあえず、僕が撮影に成功したくだんの心霊動画をご覧ください。  どうぞ。 ***  四分割で表示された画面右下の時刻表示は、午前1時34分を示していた。  暗視モードで撮影された動画はやや緑ががかっている。部屋の端にベッドが置いてあり、その上にヒミコが寝ている。いびきがずいぶんうるさい。  いびきだけが響いている動画がしばらく続いたのだが、そのいびきがピタリと止んだかと思うと、部屋の中心の床から、何か黒い影のような小さな点が発生した。その点は徐々に大きくなって30センチを超えて大きくなった。  そして、その影がまるで下から押し出されるように盛り上がると、布か紙を突き破るようにして、人間の影が現れた。全身真っ黒で長い髪の毛を頭から垂らしている。  ベッドのヒミコは、まるで水のなかで溺れているかのように、腕をバタバタと動かしている。  その黒い影の女は、カメラのほうに顔を向けると、口から何か褐色の液体のようなものを垂らしていた。まるで固まりかけている血のような粘液だ。  粘液が流れ終えると、影はそこにカメラがあることを知っているかのように、天井を見上げた。口が金魚のようにパクパク動いている。何事かを訴えているようだった。  約10秒後、影は空気に溶けるように消えた。  なんだ、これは。なんであれが、あそこにいるんだ。  ヒミコが撮影したあの黒い影は、少し前に自分の部屋に現れたものとおそらくは同一のものだ。それがなぜ、ヒミコの部屋にもいるのだろうか。しかも、もっと具体的な形を伴って。  事故物件ユーチューバーの動画を渡り歩く霊だろうか。いやそんなものがいるはずはない。  貝塚は、あの黒い影が全身を現した姿は、かつてどこかで見たことがあったような気がした。しかもかなり身近なところで。  この動画の再生数は400万を超えていたが、もはやそんなことはどうでもよかった。  ただひとつ、ここまで強烈な心霊動画の撮影に成功したことによって、ヒミコは事故物件ユーチューバーの王者の座を獲得し、自分はもはや全く顧みられることのない存在になったことは確定してしまった。もう動画撮影を継続しても、ヒミコの劣化版としか見られないだろう。  その後は何にも考えることができず、ただ放心状態でぼーっとして過ごした。気付くと午後7時を超えていて、もうすぐバイトに行かなければならない時間だ。  体調不良を理由に休もうかとも思ったが、生活にそんなに余裕があるわけじゃない。一日分の給料を失えば、一日分以上の出費の抑制を要求される。  貝塚は着替えて、バイト先のカラオケボックスに向かった。  いつものように、雑居ビルの2階の登る。階段の踊り場には、ロッカールームに無造作に置かれていたクリスマスツリーがはやくも飾られていた。青や赤の電飾のLEDがちかちかと点滅している。カラオケボックスの客が歌を歌っている貧弱な声が壁を伝ってにわかに聞こえる。  足取りは重かったが、ようやく階段を登り、カラオケボックスのカウンターが見えてきた。視界に店長の野田の姿が入ったので、「おはようございます」と言って軽く頭を下げた。 「カイちゃん、遅かったな。いつもはシフトの15分前くらいにはやってくるのに」  そのままロッカールームに向かおうとする貝塚に向かって、野田がそんなことを言った。  応じるように軽く頭を下げ、カウンター横を通り過ぎようとしたが、野田は言葉を続ける。 「カイちゃん、夕勤の恵美ちゃん知ってるだろ? 辻井恵美ちゃん」 「はあ」  バイト先には、貝塚と恵美が関係を持っているということは伏せてある。きっと野田も気付いてないはずだ。特に隠す理由はないのだが、そのほうが貝塚にとっては何かと都合が良かったし、これからもそうするつもりだ。  しかし、次の野田の口から発せられた言葉が、すべてを打ち砕いだ。 「さっきお家の方から連絡があって、恵美ちゃん、今日の夕方に亡くなったんだって」 「え?」  頭が真っ白になった。 「詳しく聞いたわけじゃないからまだはっきりしてないんだけど、どうやら、自殺らしい。ビルの上から飛び降りたんだって。急なことなんで、どうしていいやら……。とりあえず今晩お通夜らしいから、俺はこの後ちょっと顔出しに行ってみるよ。店、頼むね」  朝7時前に、貝塚は事故物件の自室に戻った。  野田から恵美の死を知らされて以降、目に入ってくるものがすべて靄が掛かったようにぼやけて見えて、仕事には集中できなかった。ミスを連発してしまったために、一緒にシフトに入っていた趙がひどく苛立っていた。  電気を点けていない部屋は、まだ暗い。そしてひどく寒い。  急に、世界中でひとり取り残されたような気分になった。  恵美に自殺する動機などなかったはずだ。悩みがあるそぶりなどは微塵も見せたことはない。詳細を聞いたことはなかったが、親や友人間でも、それなりに良好な関係を維持しているらしいということは伺えた。  それとも、俺に原因があるのだろうか。  たしかに出会ってからしばらくは二股状態だったし、恵美はそれを承知の上で関係を了承した。しかも、貝塚が前の部屋を追い出されたことにより、その二股も解消したのだ。  もしかして、前に恵美が言っていた、黒い影に追われて落とし穴に堕ちるという、繰り返し見る夢が影響しているのか。  まさか、と思って聞き流していたが、やはりそういうことなのだろうか。  貝塚は床に座ったままスマホを取り出して、画面を操作した。恵美とはそれほど長い付き合いではなかったし、ふたりで旅行に行ったことも一度もなかったから、貝塚が所有しているものなかで唯一残っている恵美の姿は、この部屋に初めて恵美が来たときに撮影したときのハメ撮りだけだった。  その動画を、再生してみる。  最初はいやがって必死に顔を隠している恵美が、「やめてよ」としきりに言っている。やがて貝塚の説得に負けた恵美が、不安そうな顔でこちらを見ている。  ――絶対、誰にも見せない?  ――約束する。  かつて交わした会話が再現される。  画面のなかの恵美の裸を見て、貝塚は興奮しなかった。むしろ、懐かしさのような感情が湧き上がってくる。それほど愛していなかったはずの女が、今はこんなにいとおしい。  秘部を貝塚の指で乱暴に掻きまわされ、身体をよじりながら恵美は「イクッ……、イクッ!」という声で絶頂を表した。  画面が転がるように部屋のあちこちを映した後、恵美が貝塚の両脚のあいだにきちんと正座をして座ると、恵美は勃起したペニスを口に含んで髪を耳にかき上げた。そしてカメラに向かって笑顔でピースサインをした。  そのとき、スマホの画面が、ガラスが割れるようなノイズが混じった。しかし、すぐにもとに戻る。  30秒ほどしたら、またノイズが入る。分厚い段ボールを力づくでやぶったような雑音が、何度も聞こえた。 「なんだ、これは。故障か?」貝塚はひとりごとを言った。  手に持ったスマホを裏向けてみたり左右に振ったりしてみたが、画面の乱れはおさまるどころかもっとひどくなっていった。  そして、画面は完全に消えて光を放たなくなった。  ブラックアウトした画面に、自分の顔が反射している。故障だろうか、と思っていると画面はふたたび先ほどの続きの動画を再生し始めた。  それは、恵美がいやらしい音を立てながら貝塚のペニスを咥えて顔を上下している姿、のはずだった。しかし、恵美の顔が画面にうまく表示されていない。顔の部分がまるで墨でも塗ったように黒くなっていて、目の部分に白い穴が空いている。まるで般若の面を真っ黒に塗ったような表情になっているのだ。  画面のそれは、まるで貝塚のペニスをむさぼり食らうように、「ブシュ、ブシュ」という音を立てた。やがて股間から顔を離すと、口から褐色の液体を糸を引いて垂らせていた。 「うわっ!」貝塚は手に持っていたスマホを思わず放り投げた。  床に転がったスマホから、生肉を食らうような音が狭い部屋に響いていく。  まちがいなくその黒い何かは、貝塚の部屋に顔を見せ、その後ヒミコの動画に心霊現象として現れたあの黒い影だった。 「うわあああ……ああ……」  気持ちよさを表現しているのか、もしくは苦しさを表現しているのか、どちらかわからないような、自分の喘ぐような声がスマホから聞こえてくる。  この部屋には、やはり俺は住むべきではなかった。  十数分後、床の上に落ちたままようやく動画の再生を終えたスマホに、おそるおそる手を伸ばす。動画再生ソフトが開いたままになっているが、すぐにそれを閉じて、アドレス帳を開いた。  貝塚にはこういうことを相談できる相手はひとりしかいない。トシミツは実家が寺らしいが、何かしらの修行を受けた経験はおそらくゼロで、単なるオカルトマニアの域を出るものではないだろう。大物ユーチューバのヒミコがお祓いをしてもらったという霊能力者に頼るのがよさそうだが、カネもないしコネもない貝塚にとっては、おそらく手の届く存在ではない。  スマホを操作して、レオに電話を掛けた。  相方のレオとは、あれ以来、一度も会ってないし、SNSで一方的にメッセージを何度か送ってはみたが、返信はなかった。  もしかしたら電話に出てくれないかもしれない。頼む、出てくれ。祈るような気持ちでコールが続くのを聞いていると、8コール目でレオは電話に出た。 「もしもし……」朝なのに、レオはぜんぜん眠たそうな声をしていなかった。 「もしもし、レオ。俺だ。しばらく連絡しなくてすまない。いきなりで悪いが、ちょっと助けてほしいんだ。何もかも、お前の言うとおりだった。俺が間違っていたよ。ほかに頼れる人もいないし、本当に、すまなかった」  焦る貝塚は一気にまくし立てた。 「ちょっと待ってよ、カイちゃん。今どこにいるの? カラオケボックスにでもいるの?」 「え? いや、自分の部屋にいるけど……」 「ちょっと、うるさくて聞き取れないや。もっと大きな声でしゃべってよ」  うるさい? いったい何がうるさいというのだろう。この部屋には、俺以外には誰もいない。 「カイちゃんの後ろでしゃべってる女の人、誰? 新しい彼女? っていうか、朝から何やってるんだよ」 「お前こそ何言ってるんだ。とにかく、今からウチに来てくれないか。相談したいことがある」 「ウチって、どこ? 引っ越ししたとか言ってたでしょ」  そういえばレオには新居の住所を教えていなかった。しかし電話を通して、レオの耳にはいったい誰の声が聞こえているというのか。電波が混線でもしているのか。 「えっと、ウチの住所は……」  住所を告げる前に、いきなり電話は切れてしまった。画面を見てみると、右上の電波状況の表示が「圏外」になっていた。そんな馬鹿な、有り得ない。こんな都会の真ん中で。  そのとき、「バチン、バチン」という何かが弾けるような音が部屋の隅で響いた。貝塚は一瞬のけ反ったが、その方向を見てみると、スタンドに立てかけてあったアコースティックギターの弦が6本すべて千切れていて、弧を描いて空中に垂れていた。  スマホでリダイヤルしようと試みるも、圏外の表示が変わることはなかった。  突然、地震が発生したかのように、冷蔵庫が激しく左右に揺れ始めた。間を置かず、シャワールームから、勢いよくシャワーの水が飛び出すような音が聞こえてきた。風もふいていないのに、窓のカーテンが激しく翻る。  部屋のなかのあらゆるものが、まるで生きているかのようにうごめき始めた。  呆然としている貝塚の目の前で、はあれほど求めていて、自ら捏造までしたことさえあるポルターガイスト現象が、貝塚をあざ笑うかのごとく次々と発生していく。  一刻も早く、この部屋を出なければならない。  貝塚はもつれる足を何とか交互に動かして玄関の扉の前まで行った。靴も履かずにドアノブを回してドアを押したが、開かない。もちろん鍵は掛けていない。しかし何度ドアに体当たりを繰り返しても、鈍い音がするばかりだった。  窓から飛び降りよう。2階だから、軽いケガですむはずだ。  そう考えて部屋のほうを振り向くと、そこには黒い影がこちらを向いて立っていた。その影の手に当たる部分には、包丁が握られていた。  貝塚はその場に倒れ込んだ。腰が抜けたのか、脚を動かそうとしても痙攣するばかりで、上半身を左右にビクビクふるわせることしか適わない。  いきなり胸に強い痛みを感じた。数日前に自分で付けた大きな傷口が、皮膚の下でまるでミミズのように暴れている。肋骨が内側に圧迫されて、思うように呼吸できずただ鼓動だけが早くなっていく。  数十秒ほど傷口のミミズが暴れた後、まるで何かから解放されるかのように貝塚の胸から鮮血が噴水のように勢いよく飛び出した。  黒い影はその様子をじっと眺めていた。 「カイ君。ずっと待ってたんだよ。来てくれると信じてた。あなたは私だけのものよ。今度こそ、一緒になろうね」  ささやく声が、どこかから聞こえてきた。  皮膚が急激に黒ずんでゆき、指の肉が腐るように落ちていく。足はブヨブヨに膨らんで、動かそうとすると腫れた足の甲が水風船が割れたように破裂して褐色の液体が飛沫した。爆発した足から、米粒のなかに黒い点がもぐりこんだような無数のウジ虫が四方八方に散らばった。  臭い。朦朧とする意識のなかで貝塚はそればかりを感じていた。まるで自分が腐乱死体になったようだ。  貝塚は残った呼吸をすべて吐き出して、 「凛音、やっぱりお前だったのか。俺が悪かったよ。許してくれよ」と訴えた。  薄れていく意識のなかで、この部屋で起こったいろいろなことを思い出していた。  黒い影は、脱色していくように色が薄くなっていくと、やがて裸の若い女の姿になった。  その女は、腐った肉となった貝塚を見下ろして満足げに微笑んでいた。
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