出逢

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出逢

「そんなところで何をしている」 寒さが細かな棘のように肌を刺す歓楽街の薄暗い路地裏。母国から遠く離れたアジアの国で薄汚いコンクリートにゴミやネズミと座り込んでいた私は少年の声に無言で顔を上げた。 「何をしている」 繰り返し尋ね怪訝そうに顔をしかめた少年の口からまた白い息が滲む。熟れた気怠い空気とネオンの明かりの中からから不思議な気品を纏った少年がこちらを見下ろしていた。 「お前こそこんなところで何をしている。親とはぐれたのか」 答えた声はがらついた。丸1週間この路地に張り付いていたせいで身なりも声とおなじ位薄汚れていた。 対する少年はアイロンの効いたしゃんとした白いシャツを着ていた。年の頃は十代前半だろうか。迷子でも不良でもなさそうで、どちらかといえば街から浮いている。 少年は怪訝そうな顔のまま、私の履いていた革靴のつま先を小さく蹴る。ジャリ、という音が路地に響く。 「”あんたには”身寄りがあるのか」少年が言う。 少し考えて私は「ない」と答えた。 ”あんたには”の妙な含みが気になった。 少年は奇妙な間のあと「ついてこい」と言い、ネオンが煌々と光る大通りに歩きだす。 身寄りがなければどうしようというのか。 しかし私が付いてくる気配のないことに気づいた少年ははっとこちらを振り返った。抜けるように白い頬にピンクや黄緑のネオンの出鱈目な色が反射している。 「立てないのか?」 少年はまた言ったが私に答える気はなかった。こんなことに取り合ってる場合ではない。探しものはいつどこから現れるかわからない。 少年は落ち着き払った足取りで、しかし迷惑そうに汚い路地へ戻ってきた。 なんだ戻ってくるのか。捨て置いてくれればいいものを。 しかし「ほら」ふわりと手を差し伸べられすこしだけ驚き、少年の顔を初めてまともに見る。 この国特有の凹凸のなだらかな顔立ちと毛穴の目立たないなめらかな肌はもしかすると彼を年より若く見せているのかもしれないが、あまり特徴らしい特徴はない。しかし唇は薄く引き結ばれ、奥二重のような目は三白気味で深い漆黒をしている。 なぜかつい魅せられるように手を伸ばすと、小さな手が凄まじい力で私を雑に引き上げた。あまりの勢いに立ち上がりざま転びかけ路地の壁に手をつく。 「なんだ。立てるのか」 少年は呟く。 正直ぎょっとした。決して細身というわけでもない、むしろガタイの良い大の大人の男が小柄で華奢な少年に投げ飛ばされると誰が思うだろう。 喉こそ乾けどたった7日程度の断食で足元が覚束なくなる私ではない。 もしかして人ではない…考えがよぎり胸が静かに早鐘を打ちだした。 いや、早合点はよくない。もう一度、少年を注意深く見つめる。万一のことがあるとすれば‥。 少年の瞳は黒く、通常それの瞳は紅い。しかしもし、例外というものがあるのなら。もしかするとこの少年が私が探していたモノである可能性がある。 天使長が私に直々に探せと命じた、特別な。 少年の瞳に闇がチリチリと蠢いた気がした。目を凝らし眉間に皺が寄ると勘は確信に変わる。 なんということか。腹のあたりがゾワゾワと気味悪く震えた。 三白眼、妙に質のいい肌や髪、全身に纏っている濃い霧のような特有の雰囲気。彼の特徴はこの国の民特有のものというだけではない。なぜ私は気づかなかった。 一度もそれを見逃したことがない私が瞳の色だけで惑わされるはすがないのに、そうと理解するのにこれほど時間を要すとは。 探すのに苦労するだろうと言われていたのはこのせいか。 話しかけられなければ存在に気づきもしなかったろう事実に全身に鳥肌が立つ。 ついに見つけた。彼が私の純潔を壊すモノというわけだ。 身震いしてなお立ち尽くす私に少年は舌打ちをする。そして私より優に頭二つ分は小さな体でおもむろに私を背負った。 「あんた酔っ払いだろ。しょうがないな」 本当は立って歩くことができた。もっといえば彼を背負って飛ぶことさえできる。しかしそうはしなかった。 代わりにぐったりと彼に背負われこれからほぼ一生をかけて道化となる覚悟を決める。 彼が私を“小汚い人間の酔っ払い“と思うのなら、私は小汚い人間の酔っ払いなのだ。 これから私は人間として暮らし、人間としてこの"少年"の人生を見守る。 それこそが私の天使としての最後の為事だ。  私は悪魔の監視人なのだから。
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