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月曜日、まだお昼の混雑までには時間がある。
その日、僕は久しぶりに学食を覗いてみた。少し人はいるけど、我慢できないほどじゃない。
ここの学食メニューは豊富で、安くておいしい。僕はときどき、空いてる時間を見計らってここに来る。支払いを済ませるとトレイを持ってそのまま食堂を出て、いつもは開いている教室か裏庭で食べるのだ。でも、今日はご飯じゃない。プリンだ。
120円のシンプルなカスタードプリン。プラスチックのカップに入っていて蓋も付いているから、持って帰ることが出来る。僕もマーゴも大好きなのだ。マーゴに二匙、残りは僕。
人の声と「気」で少しざわめき濁った空気の中、勇気を出して、プリンの置いてあるガラスケースに一直線に近付く。
だが、そこに目当ての品はなかった。僕は心底がっかりした。ほんとうに美味しいのだ。ここのプリンは。
プリンの置いてあるはずの3段目の棚は空で、もう売り切れてしまったらしい。また午後からでるかもしれないけど、今日もう一度ここへ来る勇気はなかった。
「あれ? ペンギン君も早食か?」
落ち込む僕に、声が掛かる。
いつから僕の名は「ペンギン」になったんだ?
振り向くと、案の定彼だった。支払を済ませ、トレイをもって場所を探しているところらしい。
相変わらず地味な「気」で、人が多いと完全に紛れてしまう。容姿は、ライオン頭で獣顏で背が高くて、めちゃくちゃ目立つのに。
並んで立っている友達らしい青年は、おっとりと優しげなのに、「気」は藍色混じりの金色で、とても強い。なんか畏れ多い感じがするくらい。
ふと目をやると、陸の持ったトレイの上に、プリン。
なんだ、ほんの一足遅かったんだな、とさらにがっかりした僕の目線を見て、
「あ、プリン。もう売り切れちゃってた? そっかー、ペンギンくんも好きなんだ、ここのプリン。安くてうまいよな。人気あるから、昼時まで残んねぇんだ、いっつも」
そう云いながら、トレイからひょいとプリンを持ち上げて差し出した。透明プラスチックの匙付きで。
「ほい、やるよ。今日のは、ちょいカラメル多めでお得だぞ。」
「――いい」
友達に消しゴムを貸すような気軽さで差し出されたプリン。その手を無視して、僕は踵を返す。
「あ、おい待てって!――研、悪い、ちょっとこれ持って席取っといて」
「え、ちょっと陸!」
後ろからそんなやり取りが聞こえたけど、構わずどんどん進む。学食を出て、中庭に出たところで彼が追い付いてきた。
手を掴まれそうになって、するりと躱しながら振り向く。
「なんで構うの?」
勢いで訊いてしまった。理由を訊きたい訳じゃないのに。僕に構うな。って言えばよかった。
彼はちょっと困った顔をした。
「なんで、って…、そう訊かれると困るな。ペンギンくん、プリン好きなんだろ? それってなんか明確な理由ある?」
言われて、僕も困った。確かに説明するのは難しい。好きに理由なんか、ない。
美味しいから。っていうのは違うかもしれない。美味しいものはいっぱいある。そのいっぱいある中で、プリンが好きなのだ。――って誤魔化されてどうする。
「好きに理由はなくても、…人にものをあげるのには理由があるはずだよ」
「んー、基本的に、人に美味しいものを食べさせるのって、好きなの俺。兄弟多くてずっとおにいちゃんしてたから。弟たちに簡単なおやつ作ってやったりしてたしね。――ほい」
そう云って持ってきてたプリンを自分の掌の上に乗せて、僕に差し出した。何それ。好きに理由はないのに、好きが理由になるの?
思わず手を伸ばしかけてから、なんだか餌付けされてるような気がして、癪に障った。僕は彼の弟じゃない。赤の他人だ。
手の上のプリンを掴みあげると、彼がほっとした顔で微笑んだ。なんで、たかがプリンを受け取ったくらいでそんなふうに笑うんだろう。
「これって、もう僕のものなんだよね」
「もちろん」
「じゃあ――」
僕はそのまま二、三歩先にあった屋外用の大きなスチールの屑カゴに近づいた。振り返って彼の方を見たまま、その上にプリンを持った手を伸ばす。怪訝な顔の彼に向かって、言う。
「捨てちゃっても、構わない?」
このまま手を離せば、プリンはゴミ箱行きだ。
僕の言葉に、彼の桃色の「気」がざわめく。一瞬動きかけた表情を止めて、少し困ったような微笑みを浮かべる。
「――ご自由に」
肩を竦めて、何でもないことのようにそう言った。
(嘘つき――。)
彼の「気」が揺れて、萎んでゆく。少し暗い影を帯びて、くすんだローズピンクがざわざわしてる。
僕は止めを刺すように手を離す。彼の表情は変わらない。「気」は、ひゅるりと冷たくなった。
傷ついているくせに、傷ついた顔をしない。気にくわないのに、嫌いなのに、笑顔を向ける。人間のそういうところが、嫌い――。
僕はそのまま、彼に背を向けた。
そのままアパートに帰る途中、ご飯を買いにコンビニに寄った。考えないようにしてたのに、デザートコーナーのプリンに自然と目が行ってしまう。
ゴミ箱にぽそりと落ちた、さっきのプリン――。口の中が苦いような、胃の辺りがむずむずするような、変な感じ。
気が付くと僕は、何も買わずにコンビニを出て、駆け出していた。
構内に戻り、屑カゴの近くまで来て辺りを見回す。ちょうど講義中なのか、中庭にほとんど人影は無かった。
わざわざ拾いに戻ってきたのは、彼に悪いことをしたって思ったからじゃない。食べ物を粗末にしちゃいけないって、そう思ったから。――ただそれだけ。
そう自分に言い訳しながら、僕は屑カゴからそっと、形の崩れたプリンを拾い上げた。
それ以来、もう一ヶ月余り。この大学の図書館には来ていなかった。
あの日、マーゴと食べたプリンはいつもより少し甘くて、ぺろぺろと匙を舐めるマーゴの、満足げに揺れる桃色の「気」は、何故だか僕を少し切なくさせた。
なんであんなことをしてしまったのかは、わからない。
もし彼に会ってしまったらどうしようって百回くらい考えたけど、答えは出ていない。
会いたくなければ来なければいいのに、こうして来てしまったのは、やっぱり会いたいのかな。それすらも、分からなくて。今日は朝からずっと雨で――。
煙るような雨に誘われて、来てしまった。
彼が僕にペンギンの話をした4階のテーブルで、本を広げる。
目で文字を追っても脳まで届かなくて、ため息をついて外を見た。薄灰色の単調な空。もう梅雨に入ったから、しばらくはこんな空が続くのだろう。
窓の方を向いていた僕の背後から、暖かい桃色の「気」が流れてきた。
勢いよく振り向いた僕に、彼は肩を叩こうとしていたらしい手を、おっと、とびっくりしたように上げた。
「久しぶり」
そう云って、笑う。
まるで、何もなかったような笑顔。優しい「気」。でもその桃色はどこか冴えない。
「――おいしかったよ、プリン」
気が付くと僕は、そう口にしていた。きょとんとした顏の、陸。
「少し崩れてたけど、カラメルソース多めで、甘くておいしかった」
やっと意味がわかったのか、彼の不思議顏が嬉しそうに崩れた。
「で、名前は?」
そう言った彼の「気」が、揺れる。
「草也」
答えた僕にまたびっくりした顔をして、それから、全開の笑顔。百獣の王のタテガミを彩るように、明るく広がる綺麗な「気」。
「よろしくな、ソーヤ」
僕の頭に伸ばしてきた彼の手からも、くすみのない柔らかな桃色の光が降りてくる。
――彼になら、名前を呼ばれても、嫌じゃないかもしれない。
そのときの僕は、降りてくる優しい「気」に触れながら、そんなことを思っていた。
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