第25話 腕の中へ

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「偽善でもいいの。ベッティだけが犠牲になるなんて嫌。それならわたくしもここに残ります。ベッティのためじゃないわ。助かった後、ベッティを見捨てた人間だってみんなに責められたくないって思う、わたくしが傷つきたくないだけの偽善のわがままよ」 「……はぁ、本当にリーゼロッテ様はぁ馬鹿みたいにお人がよろしんですねぇ」  仕方ないと言ったように、ベッティは呆れ交じりに微笑んだ。 「分かりましたぁ、ベッティも馬に乗って一緒に参りますぅ。ふたりで無事生還をいたしましょうねぇ」 「ありがとうベッティ!」  リーゼロッテを(くら)に乗せ、ベッティはその後ろに(またが)った。馬を立ち上がらせ、鼻先を王城のある方へと向ける。 「しっかり掴まっててくださいませねぇ!」  腹を蹴り、一気に駆けさせる。その瞬間、ベッティはリーゼロッテの三つ編みを短剣で断ち、それを手にしたまま馬の背から飛び降りた。 「ベッティ……!」 「いきなさい、リーゼロッテ・ダーミッシュ! あなたはこんな所で終わっていい人間じゃあないっ!」  馬上で振り返ったリーゼロッテの髪が風に短く広がった。馬の背は小さくなり、あっという間に暗闇に飲まれていく。  どうあっても彼女は自分と同じ人種ではない。誰からも望まれる立場の、この手には届きもしない存在だ。  早くしないと奴の気配はどんどん強まっている。ベッティは痛めた足を引きずり、リーゼロッテのいた部屋に急ぎ戻った。  残っていたリーゼロッテの服に着替え、まとめ髪をばらばらと解く。ベッティの白髪(はくはつ)なら、暗がりではリーゼロッテの金髪と見間違えてもらえるだろう。それにこのアルフレート二世を抱えていれば、もう完璧だ。  だが奴は力を感知できるはずだ。リーゼロッテの髪は目くらましのようなものだった。握っているだけでも痛いくらいに伝わってくる清廉な力は、切り取られても尚強大な緑の彩を放ち続けている。  アルフレート二世の背中の縫い目を短剣で切り裂いて、リーゼロッテの三つ編みを綿(わた)の中に押し込んだ。  そのアルフレート二世を抱えたまま、ベッティは再び外へと出た。先ほどよりも青銀の神気が確実に濃くなってきている。だがベッティもみすみすやられるだけのつもりはない。目指すのは媚薬の薬草畑だ。  そこまで行けば騎士団が(じき)に到着する。自分の命を繋ぐには、それに賭けるしかなかった。 (確かこっちの方角だったはず)  背後に迫る圧を感じながら、雪の中を進んでいく。次第にあの特有の香りが強くなってくる。最後に雪山を切り崩し、ベッティは森の中、開けた薬草畑へと出た。 「こんな方向に逃げるとは、なんとも愚かしい。ですがそれも貴女の運命だ」  遠くから背に声をかけられる。ベッティは畑を迂回(うかい)し、森の太い木へと身を寄せた。こうなればもう逃げも隠れもする意味はない。あとはできるだけ時間を稼いで、リーゼロッテを遠くに逃がすかだ。  リーゼロッテの仕草を真似て、ぎゅっと胸に抱きしめる。緑の力を放つアルフレート二世を(たて)にして、ベッティは隠すように顔をうずめた。震えているのは演技だけではない。近づく神気に、呼吸すらままならなくなる。そこをなんとか踏ん張って、ベッティは歯を食いしばった。 「逃げるのはもうお終いですか? いい加減貴女もお判りでしょう。神であるわたしから逃げることなどできないのだと」  すぐそこで立ち止まったのは銀髪の美貌の神官だった。閉じた瞳で静かにほほ笑んでいる。  それだけ見たら慈愛に満ちたやさしげな表情だ。だが体を押しつぶす圧に、立っているのもやっとなベッティだ。 (けどビンゴでしたねぇ)  カイの言う黒幕は、やはり想像通りレミュリオだった。なぜ青龍はこの男の名を目隠しするというのか。 「さぁ参りましょう。ここは寒い。か弱い貴女がいる場所ではありません」  さらに近づき手を伸ばしてくる。最期(さいご)にきちんと動けるようにと、血が出るほど唇を噛んでベッティは必死に正気を保った。  伸ばされた手が一瞬止まった。次の瞬間、包む神気が炎獄に変わる。 「これは……してやられましたね。子鼠風情に(たばか)られるとは」 「ふふぅ、ざまぁみろですよぉ」  脂汗を流しながら、ベッティは不敵に(わら)った。勝算は薄いが一か八か、やってみるだけのことはある。忍ばせた眠り針を手に、その機会を狙った。言葉とは裏腹に、レミュリオは隙なく薄い笑みを保っている。  素早すぎて動きが見えなかった。衝撃で木に背が打ちつけられる。アルフレート二世の腹の中から、レミュリオはリーゼロッテの髪を掴み出していた。  えぐり取られた綿が雪のように舞い落ちる。目の前に掲げられた髪の束は、一瞬で青銀色の(ほのお)に包まれた。飲まれるようにリーゼロッテの緑が消える。防御壁がなくなって、ベッティはさらに苦悶(くもん)の表情になった。  倒れ込むふりをして、力を振り絞り眠り針を首筋に放つ。しかし針は届くことなく、青銀の力に弾かれた。 「どうにも目障りですね」 「がっは……!」  喉元を片手で掴まれて、ぎりぎりと締め上げられる。木伝いに持ち上げられて、つま先が宙に浮いた。  視界が霞んで見える。朦朧(もうろう)とした意識の中、ベッティはレミュリオの顔めがけて(つば)を吐いた。 「そんなにわたしを怒らせたいのですか? 愚かな子鼠(こねずみ)だ」  横殴りにされベッティの体が雪の中転がった。もうチャンスは今しかない。受け身を取りながら素早く導火線に着火する。  湿気らないようにと手にした煙玉(けむりだま)を放り投げた。破裂音が空中で、闇夜に遠く(とどろ)いた。次いで発生した黒煙が辺りにもくもくと降り注ぐ。  生きて帰れない時のために用意した煙玉だ。黒幕が奴なら黒煙を、違ったら白煙をあげると決めていた。この煙はべっとりと雪や木々に付着する。日が昇ってからでも十分、カイにこの事実は伝わるだろう。 「今の音で騎士団がやってきますよぉ。このままここにいていいんですかぁ?」  媚薬畑が見つかれば、ここにいるレミュリオが知らぬ存ぜぬで通せるはずもない。無様に雪の中でひっくり返りながら、ベッティは馬鹿にしたようにへらりと(わら)った。 「小賢(こざか)しい真似を」  ぱちりと鳴らされた指の背後で、媚薬畑が(ほのお)に包まれる。青々と茂っていた畑は、一瞬で何もない更地(さらち)となり果てた。そこを都合よく雪が舞い落ちる。不自然に畑の場所だけが吹雪いてきて、あっという間に雪景色が広がった。 「くだらぬ時間を過ごしました。まぁいいでしょう、今回は自由にしてさしあげますよ。ああ貴女ももう引いてください。この後は龍の盾の彼に任せるとします。どのみち今回の件でわたしを裁くことは愚か、誰もこの名を出すことすらできないのですから。何も問題はありません」  遥かに意識を傾けて、レミュリオは独り言のように言った。ベッティのことなど忘れたかのように、背を向け音もなく去っていく。  遠退いていく神気に、妨げられていた呼吸が楽になってくる。  その代わり雪の冷たさが全身を襲う。打ち付けられた体は、もう指一本すら動かせなかった。だが結果は上々だ。  リーゼロッテを逃し、奴の正体も伝えられた。最期にカイの役に立てたのだ。ベッティはそれで満足だった。  心残りなのはカイとの約束を果たせなかったことだ。いつかいなくなるカイのために、ベッティは新しい安寧(あんねい)の地を見つけることを約束した。 「カイ坊ちゃまはやさしくって心配性ですからねぇ」  もう一度だけ頭をなでてもらいたかったな。そんなことを思って、ベッティの唇が自然と弧を描く。  訪れる眠気のまま、ゆっくりと瞳を閉じた。      ◇ 「旦那様、川から離れすぎないでくださいよ!」 「分かっている」  闇夜の森、せせらぎを耳に進む。予定より多少遅れているが、絶えることなく襲ってくる異形たちを前にそれでも前進できている。いまだ力が尽きていないのは、弱い異形しかいないからだ。  普段は襲ってくることない彼らが、追い立てられるように寄ってくる。怯えながら近づいて、近づいては逃げていく。そして祓われた一群を補うように、再び異形が現れる。  攻撃してくるでもない異形相手に、もうコツは分かってきた。進むべき方向のみ、祓っていけばいい。それがいちばん効率の良いやり方だ。 「地図通りだったら、あと少しで目星をつけた場所に出るはずです。そこまで行ったらわたしが先導しますから、闇雲に飛び出さないでくださいよ」 「ああ」  分かっているのかいないのか、ジークヴァルトは遠い先だけを見つめている。鬼気迫る背中に、それ以上はマテアスは何も言えなかった。 「オエっ!」
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