第四話 散歩

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

第四話 散歩

何処にも行けない大型連休。 町にもメディアにも、ステイホームなんて言葉が溢れていた。 それはそれは不自然な連休。 それでもミホは個人的に小さな幸せを見付けていた。 同じ駅の反対側に住む同僚の武田との交流。 それは約束事ではなく、偶然に導かれた場合のみの遊戯。 ミホが駅の周囲をジョギングする、これは休日の日課。 この連休中から始めたのであった。 そして、高架下の広場で武田が壁打ちテニスをしていたら参加する。 ただそれだけの交流、それが楽しみになっていた。 だが…今日は武田の姿は見えないまま。 わざとスローペースに落として走ったのに残念であった。 (毎日、壁打ちテニスをしてるほど暇ではないよな…。) 帰宅して、ブランチをしながら休んでいるとメールの着信音。 今や殆どの知り合いがラインなので、先ずメールという事に驚いた。 (誰からだろう…?) それは、上司の片山主任からであった。 彼女ともまた、連休前に仲良くなったのである。 ミホの最寄りの隣駅から通勤していたのだ。 「もしヒマだったら、ワンコの散歩に付き合わない?」 その一言だけのメールに驚ながらも微笑む。 主任のプライベートについては、何も知らなかった事に気付く。 (犬の散歩に誘ってくれるなんて、嬉しいな。) 「今から向かいます。」 ミホなりに主任に合わせて、簡潔にしたメールを返した。 (主任は犬を飼える所に住んでるのか…。) 独身で一人暮らしなのは聞いていたので羨ましかった。 そして自分を誘ってくれた事に喜んだ。 これで今日が、誰とも話さない日ではなくなりそうになったからである。 犬の散歩なら気楽な恰好でも構わないだろう。 ジョギングしてきたばかりの恰好だったので、丁度良い。 ミホはTシャツだけを着替えて駅に向かう。 待ち合わせは場所は隣駅の改札である。 到着した電車に乗り込んだ、連休なのに驚くほど空いている。 シートに座ると眼下に自宅アパートの小さな庭が見えた。 すると突然に、昔の情景が想い出されてくる。 その庭は、母子四人に取っては楽園であった。 引っ越した当時、母は離婚して自分の仕事を始めたばかり。 昼は書店の物流の仕事、夜は小料理屋で働いていた。 或る日、母が産まれたばかりの仔犬を連れてきた。 小料理屋の客が飼っていた犬の赤ちゃんを引き取ったのである。 住み込みの管理人も犬を飼っていたので許可は簡単に取れた。 大きくなるまでは、ミホ達で部屋で世話をした。 母が名前をコテツにしたのは、好きなアニメ番組から。 大阪の下町が舞台の、そのアニメだけが母は好きだった。 コテツが大きくなったら、散歩はミホの役目となった。 テニス部の朝練の前の日課となっていく。 コテツは家族の気持ちを一つにしてくれたのである。 小さな庭で、コテツは柵の外を眺めていた。 家族が帰宅してくると庭から部屋を覗いて動かなくなる。 だが尻尾だけは、飛んでいきそうなぐらい振れていた。 庭は基本的に芝生だったので、部屋との行き来もしていた。 コテツは部屋の狭さを知ってか知らずか、庭を好んだ。 誰かが帰宅してきた時だけ、歓迎しに上がるのである。 (片山主任は何を飼っているのだろう?  おそらく血統書付きだろうな…。) 一駅の短い間だけ揺られて、駅に辿り着く。 ターミナル駅なので乗客の移動は多い。 それでも普段の半分以下なのは間違いない。 ミホは多くの人達と一緒に改札から押し出されていった。 改札前にも大勢の人がいたが、主任は直ぐに見付けられる筈である。 なんてったってワンコを連れているのだから…。 ミホは降り慣れない駅の改札付近を見回した。 (あれ…、まだだったかな…?) ところが該当する様な人が見当たらなかった。 犬を連れている人は何処にも居なかったのである。 ミホは少しだけ途方に暮れた。 待ち合わせ時間を少し回っていたからだ。 「森さん、ここよ。」 「えっ?」 直ぐ近くから声が掛かったので、ミホは少し驚いた。 そこには片山主任が微笑んでいたのである。 しかし、主任は手ぶらであった。 「あの…主任、ワンちゃんは?」 「これから、これから。」 主任はミホを促して、駅前商店街を歩き始めた。 ミホも戸惑いながら、後を付いて歩き始めたのである。 「流石にここは人が多いですね…。」 「ステイホームタウンって感じだからね。  せめて地元で出掛けようって事じゃないかな?」 殆どシャッターが閉められている商店街を、話しながら歩く。 早く商店街も元気になって欲しい、等と。 交差点を渡って直ぐに、主任は横道に入って行く。 そこは住宅街で、休日の昼過ぎなのに静かだった。 「わん。」 片山主任が庭先に近付いた途端に奥から鳴き声が聴こえる。 一匹の犬が庭を駆けてきて、柵に近付いてきた。 「よ~、元気だったかい?」 主任は柵越しに、その犬の頭を優しく撫でた。 犬は嬉しそうに尻尾を振り回している。 「主任、このコは…?」 「顔見知りよ、ご近所さん。」 「はあ…。」 (そりゃ、そうだろうけど…。) 一通りスキンシップを取って、主任は再び歩き始める。 ミホは、何となくだが意味が分かってきていた。 「もしかして主任、ワンコの散歩って…?」 「そう、たまに皆に会う為に散歩してるのよ。  これならペット禁止でも全く寂しくないもの。」 「…ですね。」 (そっか、会う為の散歩だったんだ…。) 再び別の家の柵越しに、犬と交流を深める片山主任。 またも促されて、ミホも頭を撫でてあげると喜んでくれた。 その逢瀬を何件か繰り返して、ようやく目的地に辿り着く。 それは割と大きめの公園である。 「ここね、ワンコの散歩が禁止されていないの。  だから休日の暇な時間によく来るのよ。」 公園に入っていくと確かに犬を連れている人が多い。 そして、それに比例するかの様に子供も増える。 家族連れも休日を楽しんでいるのだ。 犬も人も、互いに挨拶を交わしていて楽しそう。 それをベンチに座っている人の膝の上で、猫が眺めている。 「ここ…すごく素敵な公園ですね。  こんな場所が近所に在るなんて羨ましいです。」 「全く有名な公園じゃないから余計に寛げるのよね、ここ。  でも一駅だけだから、遊びには来やすいでしょ?」 「はい、また来ちゃうと思います。」 素晴らしい公園を紹介して貰えて、ミホは上機嫌だった。 嬉しそうに散歩をしている犬を見ているだけで、幸せである。 その数は、かなりに上る。 公園の奥まで歩いて、ベンチで休む事にした二人。 片山主任は紅茶、ミホは缶コーヒーと定番である。 二人は他愛もない雑談をして、それを心から楽しんでいた。 暫くして、主任がミホに視線で促した。 ミホは向かい斜め前のベンチに視線を送る。 ノンビリ歩いてきた男性が、腰掛けて休み始めたのだ。 「あれっ、武田クンじゃないですか?」 「森さんは視力が良いわね~。」 片山主任は笑いながら言った。 その豪快な笑い声に、向かいの男性が気付く。 武田である。 「主任…あれ、森さんも一緒?」 「そうよ、今日は森さんを散歩させに来たの。」 「武田クンも、よく来るの?」 「沢山の犬が見られるからね、天気の良い休日は。  主任とも、よく会いますよね?」 「そうね。」 武田はベンチを離れてミホ達の方へ。 手にはミホと同じ缶コーヒーを持っていた。 ブラック。 午前中に会えなかったミホは、すごく嬉しかった。 だがその事に、まだ自分では気付いていなかった。 武田の方も喜んでいたが、自分では分かっていなかった。 お互いの好意に気付いていたのは、主任の片山だけである。 …三人になり話題も増えた、時間が経つのは早い。 もっぱら、かつて一緒に暮らした動物の話で盛り上がった。 飲み物を飲み尽くした時点で、お開きとなる。 片山主任が駅まで二人を送ってくれた。 二人は改札で主任に礼を述べる。 「今日は本当に楽しかったです。  誘って頂き、ありがとうございました。」 「うん、また連休中に会うでしょ。  それじゃ、気を付けてね。」 ミホと武田は改札を通り、ホームへのエスカレーターに乗る。 最後にミホだけが振り返り、お辞儀をした。 片山は自分の読みが的中した事に喜んでいた。 武田が公園に来ると予想して、ミホを散歩に誘ったからである。 (あの二人は赤い糸で結ばれてるんじゃない…。  お互いに赤いリードを持っているみたいだったわね。) 二人の乗った電車を見送って家路につく。 彼女の散歩も、これにて終了。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!