境界

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 男は、トマトを齧りながら、手近な岩に腰を下ろした。カンカン帽を被っている。飴色には程遠い、最近買ったらしいそれは、子どものように華奢で小柄な男には少しばかり、大きすぎるように見える。  リネンのシャツの前をはだけ、ズボンを膝までたくし上げ、脱いだ下駄をその辺に放り出して、裸足を川の水につけたままブラブラさせている、悪童みたような男。  胸に情熱のある男。肚に孤独を抱えた男。帽子の影から大きな目で、何かをヂッと見つめている。それでいて、ぼんやり浸っている。やつは詩人なのだ。売れない、若い、詩人である。そして、我が友である。  友であるから、今、やつが何か考えているらしいことはわかる。正確には、何か感じ取ろうとしているらしいと推測する。たぶん、こんなことだろう。  この清水には、蛍が棲んでいるのです。昼間はどこか、あの木、この花、その葉の裏にでも、眠っているのか知らん、小さな虫。彼らは昼間、きっと、光を集めているのに違いない。  朝焼けの空にそっと起き出して、真昼の蝉の喧騒に紛れて、夕凪には風を待って、そうして、(きた)る、夜。  空は月もなく、雲もなく。  そこには満点の星があり。  誰も知らない世界の歌を、       奏でるような、さやかな風が。  空は雲もなく、星が(あか)って、       晴れ渡る、澄み渡る。吹き渡る風。  誰も歌えぬ世界の日々を、       奏でるように、さやさやと。  夢みたような、星のシャンデリア。瞬きの間に流れる願いが、ひとつ、ふたつ、とんで、いつつ。  ああ、それとも、硝子を打ち割ったような無数の星屑。破片が地上にまで降り注ぐ。水面に映る原初の天井画を、時折ゆらりと風が撫でてゆく。  詩人がパシャリと一蹴り、水面を揺らした。手首に垂れてきたトマトの汁を舐めとってから、ぶら下げた手拭いで汗と一緒にふいている。  詩人が目を閉じた。水面はもう、静かに煌めいている。  風が撫でた星の川から、ふわり、ふわり、と、生まれる光。ひとつ。また、ひとつ。ある者は空気に身を任せるように、ある者は空へとかえるように、ある者は笑ってでもいるかのようにあちこちと、浮かび、飛び回る翡翠の色の光たち。  静寂の夏の夜。幽玄の蛍の群れ。川に映る無数の光は、見上げた天の雲母(きら)刷りの川。昇るように、降るように、混ざり合うように集まっていくその光は、確かに儚く、遠く、されど縋りたくなるような、無常の姿をしていたのでした。  詩人はそっと、掌をあわせ、何かに祈るように頭を垂れた。そうして、彼は黙って顔を上げると、ずれた帽子を被り直した。下駄を拾って、その辺りまでは見えていたが、あとは木々が邪魔してわからなかった。  何を祈ったのか、それは知らない。いずれやつが本にするまで、それとも書き散らしが拾われるまで、他人がそれを知ることはない。ペンが進まないんだと言うようだったら、永遠に、肚の底にしまわれたまま終わるのだ。  先客が消えた川端で、特に意味もなく景色を眺める。  きっと愛しき詩のための叙景は胸の内に済んだのだろう。親しき死のための情景を瞳の奥に描いたのだろう。フと、視界に昼間の蛍が飛んだ。
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