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決心
部屋を訪れた中也を、白秋は微笑をたたえて出迎えた。しかし、中也が応接セットに腰掛けても、彼はなかなか話し出さなかった。沈黙に耐えられず、中也は話題を振ってみた。
「さっき、永原みすずさんに会いましたよ。この大会の聞き手だそうで」
「ふうん」
白秋はさして興味無さそうに聞いていたが、不意にくすりと笑った。
「そういえばあの女、今は和倉泡鳴の愛人だそうだよ」
「本当に?」
中也は度肝を抜かれた。泡鳴といえば、もう七十歳近いはずだが……。
「なかなか思うような棋士をつかまえられなくて、焦って子供だけでもと思ったんだろう。焦り過ぎて頭が沸いたんじゃないのか。DNAがいかにあてにならないかは、潤一郎を見れば分かるだろうに」
潤一郎は、未だに三段である。若手にも次々追い抜かれ、最近は、白星などついぞ見かけないらしい。
二人は、顔を見合わせて笑った。少し空気が和らいだことに安堵した中也は、思い切って尋ねてみた。
「どうして引退したんですか」
すると白秋は、鞄から何かを取り出した。中也は息を呑んだ。それはパスポートだった。
「中也。君、この大会が終わったら、渡米して向こうで囲碁のインストラクターをやるつもりだろう?」
「どうしてそれを……」
治や青木の人生を大きく変えた父辰雄の姿は、中也に深い感銘を与えた。自分もインストラクターを目指そうか、と密かに考え始めていた頃、オスカーがきっかけを与えてくれたのだ。中也たちの影響で囲碁を始めた彼は、イギリスへ戻った後も続けようとしたのだが、学ぶ場が無かったのだという。そんな彼の嘆きを聞いた中也は、参加者のほとんどがアジア勢だった国際フェスティバルの光景を思い出した。そこで中也は、オスカーにこう宣言したのである。
『僕は、欧米にも囲碁を普及させるため、国際的な囲碁のインストラクターになる』
その時中也の脳裏には、自分に国際的な活躍を期待していた亡き母の姿があった。
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