虹に願いを

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 世界は所詮自分一人がいないところでだってつつがなく回る。  私一人いなくなったって、何ひとつ変わりはしない。  母が泣いている。父の拳が震えている。兄は母の肩をしっかりと支えている。  その光景は胸を痛めるけれど、すでに届かない声でごめんなさいとつぶやくことしかできない。  自分の葬儀を見て泣き出したのはトム・ソーヤ。なんてボクはかわいそうなんだと泣きじゃくって現れたトムは、悲嘆にくれた家族や村人をうれしい驚きに沸き立たせた。小学生のころに読んだお話。  だけど、それはただのお話。  母の真っ赤な瞳の焦点は目の前に浮かぶ私の姿にではなく、もっと向こうにある遺影に一点を結ぶ。 「何も高校生のころの写真使わなくたっていいのに」 「仕方ないんじゃありませんか? それでも随分と探したようですよ」  高校を出てすぐに地元を離れた大学に通い、そこで就職した。写真嫌いの私がたった一人で写ってる写真なんて、十年暮した部屋にも見当たらなかったことだろう。  黒額縁の中で、ちょっとカメラから目をそらして生真面目に口元を結んでいる私。ほんの少し色あせて、ほんのちょっとばかりピンぼけ。集合写真から無理やり引き伸ばしたのがすぐわかる。 「……人間どんなに苦手でも遺影用の写真のことくらい考えてすごしておくべきだわね」 「まぁ、あなたの年齢でそんな準備をしてる人もそういないでしょうが」 「それはそうか」  ふと気づくとそばにいたこいつ。ピックと名乗った。  どれだけ急いでたのかは知らないけど左折で突っ込んできたダンプにはじかれ、ちょっとばかり見るに耐えない状態になっている私の体をぼんやり見つめていたときだった。  まいったなぁ、結構簡単に死んじゃうもんなのね。人間て。なんてことを考えていた。 「これほど落ち着いて状況判断する人も珍しいですね」 「や、だって、あからさまに死んでるじゃない。私」 「確かに」  ペパーミント色の癖毛がくるりと一房広い額にこぼれている。四歳児くらいの身長にばら色の頬。血統書付の猫みたいな金色の瞳。スタンドカラーの黒いマントをその身にまとわせて、すぼまった裾はすうっと空に溶けている。  考え深げに人差し指でとんとんと顎を叩いて、サイレンも鳴らさずに走る救急車を見つめる。私たちはその救急車の後を飛んでついていた。制限速度を守って走る救急車と同じ速度にもかかわらず、飛んでいる感覚はゆったりとふわふわしている。  空を飛ぶ夢はよく見ていた。それとはまったく違う感覚。髪を吹き飛ばす風がない。体を押し返す空気がない。ピックのふわふわした癖毛とひるがえるマントはただ、主の動きにワンテンポ遅れてついていっているだけで、外から加えられる力は何ひとつ感じられない。はたして私はどうなのかと手や体を見てみると、オーソドックスにその向こうの風景が透けて見えた。  葬儀が終わり、おそらく一週間はたった。多分。時の過ぎ方がなんだか違うように思える。  あれ?と思うと空が赤く、夕日なのか朝日なのかと見つめていると、いつのまにか中空に煌々と月が輝いている。  私は大体実家の屋根の上にいた。ちーんと響く音がしたら仏壇までのぞきにいったりしたけども、ほとんどにおいて外にいた。時折たずねてくる見覚えのある人たち。誰だったっけと散々考えてやっと思い出したら、ダンプにはじかれる前日に、ミスをこっぴどく叱った後輩だったりした。  私のこの姿と同じように、記憶もどんどん薄れていくんだろうか。 「当然ですよ。そうでなきゃあなたどこにも行けないでしょう?」  空に浮かびながら、背筋を伸ばすピックはやっぱりしつけのいい猫みたい。 「私、どっかに行かなきゃいけないの?」 「行きたいとこ、ありますか?」 「あると思うんだけど、なんだかわかるようなわかんないような気がするのよね」 「わかりたいのかわかりたくないのかって気ではなく?」  片眉をくいっとあげて、顔は屋根に向けたままこちらに視線だけ流すピックの仕草が、やけに憎たらしく思えた。子どもがするような表情じゃない。 「あ、かちんときてる」 「……なんでもお見通しってわけ?」 「さぁ、どうでしょうね」 「あなた、ピック、いったいなんなの? なんでずっと私のそばにいるの? 死神サンってこと?」 「そう呼ぶ人もいないわけじゃないですね」 「じゃ、なに?」 「呼びたいようにどうぞ」 「どう呼ばれてもかまわないわけ?」 「かまいませんよ。どう呼ばれるかってことはボクにとってたいしたことではないですから」 「……クソガキだわね」 「お好きなように」  くすりと口の端で笑うピックは、おやつを人より多くかすめとった幼稚園児のようにしか見えないのに、金色の瞳は冴え冴えと冷たくさえ感じる。  行きたいとこはあった。  ダンプにはじかれる直前、ダンプのほうはどうだか知らないけど、私のほうは急いでいた。待ち合わせの時間にはまだ間に合う時間だったけど、早くその場に行きたくて。事故の後すぐ向かってもよかったんだけど、もしかしたら生き返っちゃうかもしれないしなぁなんて思ってた。  それにどうやら私の今の姿は人には見えないようだから、待ち合わせの場所に向かったところで相手には見えないし、万が一生き返るなら人の目に写る体で行ったほうが、時間的に遅れてもまだマシかもとか。まぁ、当然そんなことは起きなかったから今私はここでぷかぷか宙に浮いているわけだけども。 「どうして行かないんですか? 恋人だったんでしょう?」  八年。彼と出会ってから八年経ってた。恋人同士になってから五年。それだけ経っても、デートの日はうれしくて。最近では外で二人で会うことが少なくなってたから余計に新鮮でうれしかった。  お互い職場では中堅どころとして仕事を任されることが多くなって、どちらかの都合ですれ違う約束が増えていて。  喧嘩をしてすぐ仲直りしなくても、何日か後には何事もなかったように会えるほどに慣れた関係になって。  それでもやっぱり久しぶりのデートはうれしかった。  握りしめていた携帯は、ダンプにはじかれたときに飛んでって壊れてた。残骸が野次馬に蹴散らされていた。  彼は、どれだけ待っただろう。待ち合わせ場所で一人たたずんでたであろう姿が浮かぶ。  なぜかその姿は遠目で、顔がよく見えない。 「ほんとよね、なんで行かなかったんだろう。行かなくちゃ」  でも実家から彼と私が住んでた町まで電車で三時間。そんなに飛べるものかしら。どれだけかかるんだろう。 「願うだけで」  ピックは人差し指を私の額にぴたりとつけて、にっこりと微笑んだ。  今の疑問は口に出しただろうか。ああ、でも今私は幽霊なのだから、口に出したところでリアルな音ではないだろう。だったら口に出そうが出すまいが大した変わりはないのかもしれない。 「願うだけで飛べますよ。即座に」 「願うだけ?」 「ええ、ボクがいればね」 「彼が私を待ってるの」 「その場所へ?」 「連れて行って」  ゆっくりと渦をまくように、風景がゆがみ、溶けていく。ピックの指が置かれた額の一点だけがぽおっと温かい。  彼の手のひらも、いつも乾いててほんのりと温かかった。  意地をはってはふくれていた私の頭にぽんとのせた手。  顎を軽く持ち上げる指。  その温かさがとても好きだった。 「どうぞ。あなたの願いどおりの場所ですよ」  そこは通いなれた彼の部屋近くの駅前。待ち合わせたパン屋の前。  あの日待ち合わせた場所。  月曜の昼間は、人出も少なくてカランカランとパン屋のドアが鳴る。  出てきたのは子供をつれた近所の主婦。 「……いないわよね」 「そりゃ一週間以上も待つ酔狂な人は普通いないですよね」 「………あんたバカ?」 「なにをいきなり」 「いまさらここに来たいわけないじゃないの」 「おやおや、あなたの願いどおりにしたのに」 「違うわよ。気のきかない子ね。今ごろ彼は会社でしょうが」  ピックはやれやれと肩をすくめる。 「私が行きたいのは、今、彼のいる場所よ。彼がいたはずの場所じゃな………」  いたはずよ。ええ、彼はあの時間、この場所にいたはず。 「それではそのようにちゃんと願ってくださいね」  またピックの人差し指が額に置かれる。ぽおっと温かい。  いたはずだわよ。ここに。約束したんだから。そりゃ今はいないけど。当然じゃない。  ――……一週間も経ってるんだから。  見下ろせば、ちょこまかとミニカーのように動く車の列。時折刺すように太陽の光を反射させている。十二階の彼のオフィス。窓ガラスごしにせわしなく動くスーツ姿の人たち。  一房寝癖ではねている後頭部が見えた。PCの画面とにらめっこしてる。ちかちかと反射するモニタの中ではグラフや図面の窓が閉じたり開いたり。ちょっと口を開いてる顔がうっすらと映っている。集中してるときの彼の癖。よくからかって笑った。メールが届いたと知らせるダイアログが出る。 「見ないんですか?」 「親しき仲にも礼儀ありでしょう? それに職場へのメールなんて、仕事のことだわよ」  彼のデスクにコーヒーが置かれる。制服姿の女性の手も、親しげに彼の肩に一瞬置かれた。  駆けるように太陽が沈む。早送りの世界。慌しく人の群れがビルから吐き出される。  早足でその群れに乗る一房の癖毛。  それを見つけた瞬間からリモコンボタンを押したように早送りが止まる。  癖毛は、駅とは違う方向へ向かっている。 「ねぇ、どうして彼の近くにいけないの? さっきからそばに行こうと思ってるのに動けないの」  私たちは、救急車の後を追っていたときのように、ふわふわと連れ立って浮かんでいるだけで、彼との距離は一向に縮まらない。ピックは肩をすくめるだけで答えなかった。  オフィス街と繁華街の区切り目の、遊歩道のある大きな通り。噴水や花壇がいくつもあるそこの街灯の下、彼が立ち止まる。信号待ちにしてはちょっと外れた位置。周りを見回して、街灯に背もたれる。帰宅ラッシュが始まっている。のろのろと渋滞を進む車の隙間を縫うように走るタクシー。青信号にかわっているのに出遅れた車をせかすトラックのクラクション。 「ああ、どうしよう。彼が待ってる」 「そう?」 「待ってるじゃない。ほら、そわそわしてる。ライターをかちかちいわせてるでしょう?」  タバコを吸いたいけど、ここは吸っちゃダメなとこだからって。  その生真面目さがいつもおかしくて。 「行かなきゃ」 「どうぞ。あなたが望むならね」  行かなきゃと思うのに、私は宙に浮いたままどこにも行けない。降りることができない。  どうしてそばに行けないんだろう。私たちは通りを隔てている。  渋滞になりかけて、ゆっくりと進む車の隙間から、コマ落としのように彼の姿が垣間見える。 「邪魔だわ。この車。どれもこれも」 「どうしたいんですか?」  彼の笑顔が一瞬見えた。  彼の唇の端はいつもきれいに持ち上がる。  寄りかかっていた街灯を押しのけるように弾みをつけて、一歩踏み出す。  途切れなく私と彼の間に車が何台も。  邪魔。  私をはねたダンプは、その大きな車体を道路に垂直に止めていた。遅すぎた急ブレーキ。  行き先をはばまれて出来上がった渋滞は、救急車もなかなか進めなくさせていた。  私も彼のところに行けない。ほら、彼もこっちに来たがってるのに。 「あなたが望むことをボクは叶えることができますよ?」  ピックがそっと囁いた。  こいつはこんなにしっとりとした声をしていただろうか。  耳を濡らすような響きは実体がもうないはずの私の肩を震わせる。 「タダではないですけどね」  タダもなにも私が差し出せるようなものが何かあるというのか。  あるというならなんでも持っていっていい。  どうせ何も持ってないのだから惜しくなどない。 「では、願いをどうぞ」  ゆらりと蛇行しながら右折してきたトラック。  煽られて、けたたましくクラクションを鳴らすタクシー。  幅寄せされて急ブレーキを踏んだバイク。  トラックの運転手がうつむきかけている。  ゆっくりと、車体は斜めに。  彼の笑顔。  ずっと私のほうを向いていた笑顔。  あの日から、どんどんかすんできて、うすぼんやりとしてきて。  もう一度ちゃんと見たかった。  どんどん薄れていくのが怖かった。  あれだけちゃんと見つめていたのに。  八年も、ずっと見つめていたのに、ほんの一週間で私の記憶が薄れていく。  だから、会いたかった。  ちゃんと私のほうを見て。  笑って。  初めてキスしたときの笑顔を見せて。  私の、そばに、きて。  普通の車のものより大きなタイヤがきしんで悲鳴をあげる。  空気を切り裂く急ブレーキの音。  響き渡る、いくつものクラクションの合唱。  トラックの運転手の頭とハンドルに載せた手がかくんと落ちて、その鉄の巨躯が目指した先に彼がいる。 「ずっとね、ほんとは待ってたの」  飛び跳ねるように頭をあげたトラックの運転手は、片手もあげて周囲に形ばかりのお愛想をまいている。  こめかみに汗が一筋垂れている。  いつの間にかスローモーションになっていた世界が、時を取り戻している。 「彼がね、お線香あげにきてくれるって。だから実家にいればいいって」  歩道の縁石ぎりぎりまで車体を寄せたトラックがゆっくりと体勢を立て直す。  ウインカーをあげて、乱れた列にそろそろと加わっていく。  その向こうに彼の横顔。  その視線の先に、制服から着替えた人。  昼間彼の肩においた手が、そっと彼の寝癖に触れる。  喧嘩しても、次に会うときはいつも彼は笑顔だった。  だから今度もそうだと思ってた。  いつもよりも長い間会ってなくても、次に会う時間さえつくれれば笑顔になれると思ってた。  私のほうをちゃんと向いた笑顔なんて、ずっと見てなかったのに。 「願いは、どうしますか?」 「タダじゃないって言ったわよね?」 「そりゃタダより高いものはありませんからね。ボクは良心的なんです」 「私、何も持ってないわよ」 「何も持ってない人に取引はもちかけませんよ」  私がいなくたって、世界は回っていく。  家族も友達も彼も、自分たちの時間を進んでいく。  私がいた場所をみんな通り過ぎていく。 「私、どこに行くのかしら」 「それはボクが決めることじゃないですから」 「知らないの? あなたもしかして下っ端?」 「……で、願いはなんですか?」 「いくつ?」 「普通はひとつです」 「たった一つ? 案外ケチね」 「そんないくつもあるんですか。すずめのつづらのお話知らないんですか? 欲かくとろくなことになりませんよ」 「ランプの精は願いをみっつかなえてくれるわよ。あんたやっぱり下っ端でしょう」 「………いくつですか」 「ふたっつでいいわ。大サービス」  片眉をあげながら、頬を人差し指でかきつつピックはうなずいた。もうすでに運び屋を二度もしてるんですけどねなんてつぶやいて。 「雨、降らせてよ。すっごいやつ」 「雨ですか」 「そう。ほら、あの女ったら昼間のときより化粧が濃くなってるわ。あのアイラインがどろどろになっちゃうくらいのやつ」  彼を見上げる彼女の横顔。  その完璧に上向いたまつげを指差す。  ピックはマントをちょっと持ち上げて口元を隠した。 「で、もうひとつは?」  ニヤニヤ笑いをこらえきれない様子。私も想像して口元が緩む。 「私のね、記憶がこれ以上消えないようにして」  ニヤニヤ笑いが、緩やかな微笑みに変わる。 「永遠ってわけにはいきませんよ? あなたはこれから行くとこがありますし」 「うん。私が私でいられる間だけでいい」  ピックの人差し指が私の唇のそばでくるくると舞う。  綿飴のようにどこからか生まれた細い糸がその指にからめとられる。 「―――契約は成立した」  ざぁっと大粒の雨が降り注ぐ。  ばたばたと激しく落ちる雨音。  叩きつけられたらさぞかし痛かろうその雨粒は私の体も、ピックの体も一筋さえも濡らさない。  ただ、ゆっくりと、その水煙が、私の色を溶かしていく。  悲鳴とも嬌声ともつかない声をあげる彼女と彼が走り去る姿を見て、ピックと二人にやりと笑いあう。 「まあね、私を見ない笑顔なんて要らないもの」 「強がりもそこまでいけば賢明な意見になりますね」 「私が消えていってるの? それともあなた?」  視界はすでにもやにつつまれたように白く、ピックのペパーミント色の癖毛も空気に溶けて見える。 「ねぇ、結局あなたは何を手に入れたの?」 「……この雨はすぐにやみます。あなたも一緒に消えますけどね。多分その瞬間に見えますよ。怖いですか?」 「そうねぇ、思ったよりはそうでもないわ」 「それは何より」  厚くたれこめた雲間から一筋。もう一筋。光が差し込んで。  もうすでに自分の指先すら見えない。  突然降り出したの雨と同じように突然降り注ぐ光。  ビルの谷間から伸びる七色の糸がゆるやかなカーブを描いている。 「あなたを地につなぎとめていた糸をもらいました。まぁ、願いひとつ分余計にかなえられるくらいには綺麗でしょう?」  薄れていく意識と視界。  それでもまだ消えかけたままの笑顔が見える。  ピックの声だけが最後に響いて。  そうね、うん、悪くない。
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