1 バグは消えない

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1 バグは消えない

 エレベーターホールに姿見がある。その鏡の前に立ち、映った自分の姿を見る。  鏡の中の私は真新しい靴を履いている。履き慣れて手入れのゆきとどいた靴や動きやすい靴ならどんな靴でもかまわないと思うが、妻はステイタスだと言って高額の靴を買い、私に履いてねと言った。  私は鏡の向こうにいる私の足元を見ている。鏡から私の足元への距離と、鏡から鏡の向こうに居る私の足元までの距離は等しい。鏡の向こうにいる私はその靴を履いている。  私の視線は、私の目から鏡の向こうの私の足元へ一直線だ。  実際は、私の足元が発した光を鏡が反射し、その反射光を私が見ている。あたかも鏡の向こうの虚像の足元から発した光を、鏡のこちらにいる私が見ているように。  私の目と、光を反射する鏡の反射点と、私の足元。この三点を結ぶ最短距離は、私の目線が虚像の足元を見たときの私の目と虚像の足元との距離だ。そして、鏡が光を反射する点は、虚像の足元を見る私の目線と鏡との交点だ。光は最短距離を進む。光工学の基礎だ。  ゆふこに、 「反射は光工学の基礎だからしっかり納得するまで確認しなさい」  と言ったのは先々週だ。今日で二週間がすぎているが、ゆふこは基礎事項を理解しない。どうしたのだろう。 「どうした?理解できないか?」 「いえ、確認してるんです・・・」  たしか先週も、ゆふこは同じことを言った。 「図式化して理解すればいいですね。物理と数学の知識で鏡の反射を理解できます」  ゆふこは明瞭に言い、課題とその図形を眺めているがノートに数式を書かない。もしかして、ゆふこは光の反射を理解できないのではないか。  過去に、別な課題でゆふこと同じ状況の者を確認している。彼女もこうした状況下で、過去に学んだ工学知識を思い出せずにいた。  この時私は、記憶することが多すぎて、ゆふこが一時的に混乱していると思った。
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