最終話~After Days ~

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最終話~After Days ~

夏が始まる。   木々の梢が淡い緑に彩られ、灰白色の空が青を取り戻し、街が活気を取り戻していた。  崔との決着の後も俺達はあわただしく、マグノリアが咲いたのも気づかなかった。  庭に面したテラスで、テーブルに肩肘をついて、朝の光に照り映える芝生を眺め、目を細めた。  風にそよぐ草の波。さわさわと心地よいさざめき。草の波を掻き分けて走る幼い自分の姿がふっ.....と視界を過った。満面の笑みで、大きく拡げられた腕の中に飛び込む。 『Ich leave Vather(父さん、大好き)...!』  俺がたったひとつ憶えているドイツ語は、いつも父さんの優しい笑顔とともにあった。  溜め息がひとつ、こぼれる。 「お茶が冷めるわよ」  首を巡らせると穏やかな優しい微笑みがひとつ、俺の傍らで綻んでいた。  彼女は周囲を気遣い、元気そうに振る舞う。けれどやはり肩から吊った白布が目に痛い。   「傷はもういいのか?」  俺はほんの少し目を伏せて彼女を見上げた。   「大丈夫よ。もうすぐこれも取れるわ」  彼女の長いしなやかな指が白布を撫でる。俺はそれがひどく痛々しく見えて唇が歪む。 「邑妹(ユイメイ)、ご免.....」  彼女は俺達から崔を引き離そうと、俺達の思いも依らない場所で、ただ一人戦っていた。  ロシアから姿を消して、ひとり崔のところへ直談判に乗り込み.....だが奴は聞き入れなかった。それでも可愛い義妹を手に掛けることをしなかったのは、奴の中にまだ、人間らしい心が残っていた証だ.....と俺は思う。 「俺は奴を殺すしか無かった....」  彼女は控えめに小さく微笑み、隣に座った。執事にカップをもうひとつ頼み、二人で草の波のざわめきを聞く。オレンジ色の花が風に揺れて夕焼けの空と混ざり合う、あの秘められた丘に今、奴は眠っている。  奴が最愛の人を葬ったその場所に.....。二人の一欠片の骨が小さな器に入れられて、埋まっている。 「貴方は何も悪くないわ」  彼女の指が伸ばされ、俺の髪をくしゃくしゃと撫でる。やっと俺らしく短くさっぱりした襟元を涼やかな風が擽る。ミハイルは随分とぐずぐず言って惜しんだが、俺に長い髪は似合わない。 「あれでよかったのよ.....」  ガラスのカップの中に、ジャスミンの花が揺れる。  遠い眼差し.....。時の彼方を夢見るような、懐かしさと淋しさを湛えた眼差しが、小さな白い花を見つめる。そして、僅かに潤んだ双眸が蒼空を仰いだ。 「彼は、やっと幸せになれたの.....」 「幸せ?」 「あの人の希み.....。姉さんが迎えに来てくれること.....。地獄から救い出してくれる日を待ってた」  彼女はこくり...と喉を鳴らし、お茶を美味そうに飲み下した。 「姉さんが逝った、あの日から....あの人には、この世は地獄でしかなかったから....」    死神を待ち焦がれていたのはあいつの方だった。喪われた愛しい面影を、気が遠くなるほどの年月の間じっとその胸に抱えて、奈落の底へと自ら堕ちていった男.....。  もしかしたら、ミハイルも俺も辿っていたかもしれない永劫の地獄......。 「感謝してるわ」  複雑な面持ちで黙り込む俺の手を邑妹(ユイメイ)の手がそっと包んだ。 「あの人は幸福の中で逝けたんだもの.....」  それが幻であっても、崔は愛しい恋人を抱きしめて、逝けた......邑妹(ユイメイ)は、それだけでも彼は救われた、と言う。 「それにね.....」  彼女は眩しげに太陽を仰ぎながら言った。 「私はミハイルの....あの子の幸せが一番なの。だから貴方は何も悔やむこと無いのよ」  彼女は誇らしげに笑った。俺はちょっとだけ肩をそびやかして、彼女に微笑んだ。 「ミーシャは、邑妹(ユイメイ)の大事な息子だからな」 「そうよ、私はあの子の母親だもの」  眼差しの先に黄金の髪が風に揺れていた。高く右手を上げて、ブルーグレーの瞳が微笑む。 「ここにいたのか」 「そうよ。お茶をいかが?」  俺達は、昼下がりの安穏の中でゆったりと語り合い、笑い合う。  サンクトペテルブルクの短い夏。  オヤジの声が耳底に甦る。    ー存分に生きればいい。いつだって太陽はお前の傍にいるー  俺はちょっとはにかんで、伸ばされた手を握り返した。
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