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「瀬田川」
名前を呼んで、じっと瞳を見つめた。
「……」
当惑だけが相手の顔にある。一体、どういうつもりかと疑念で一杯になっている。
揺れる瞳は、涙の名残で濡れていた。砡のように透明感がある眼は、じっと眺めていたら奥まで見通せそうだ。
狩谷はもっとよく見たくて、さらに椅子を前に進ませた。
互いの顔が近づき、睫の数までわかる距離になる。
瀬田川は驚きの表情のまま固まっていた。狩谷が他人の距離を越えて、パーソナルスペースまで踏みこんでくるのを茫然と眺めている。何が起こっているのか、まったく理解していない様子だ。
そんな表情に惹かれて、手をのばし、瀬田川の耳の下に触れる。
ちょうど顎の終わりの部分、マスクの紐がかかったそこに指を忍ばせた。
細い首筋が、ぴくりと反応する。けれど、逃げようとはしなかった。
――ソーシャルディスタンス。
って、何だっけ。
狩谷は使い捨てのサージカルマスク。瀬田川は顔にフィットするタイプのグレーのマスク。これを外したら、やっぱりまずいのか。
「……」
訝しむ相手に、顔をゆるく傾けてよせていき、触れそうになった直前でとめた。キスしたいという望みを視線に託し、相手の虹彩を覗きこむ。
「……狩谷?」
大きな黒い瞳は、疑問と戸惑いに満ちている。どうしてこんなことをするんだと、問いかけている。その眼差しを絡め取り、まぶたに力をこめて、ゆっくりと目を細めた。
――お前のことが、好きだから。
そう、瞳で語りかけように。
狩谷は目線を下に移し、唇のある場所でひたととめた。グレーのマスクの下にあるものを想像すると、自分の目元が熱を帯びる。と同時に腹の底から欲望が形を持ち始める。
生まれたばかりの男への情欲を、隠すことなく眼差しにのせて、相手を射止める。
するとやっと瀬田川は狩谷の意図を理解して、身体を大きく強張らせた。
相手の目つきがみるみる変わっていく。
「……狩谷」
瀬田川の声が震える。
「うん」
囁き声で応える。
「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
それだけで、言いたいことは伝わった。
瀬田川の悲しみに沈んでいた表情が、憂いを吹き飛ばし、新たな嵐に翻弄され出す。
今まで気にもとめなかった目の前の相手が、実は人間で、男で、恋愛対象となり得る人物なのだと、初めて気がついたかのように。
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