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第一話「焼き鳥職人は、超多忙」
その一
チーン、仏壇のお鈴を鳴らして絢辻彦一は、正座のまま手を合わせた。
築五十年は軽く超えた、木造二階建ての一階にある六畳の仏間。
柱には、少し傾いたボンボン時計があり、針が午前五時四十分をさしている。
南向きの障子からは春のやわらかな朝の光が差し込んでいた。
彦一は目を閉じ、普段着兼仕事着である紺色の作務衣姿でつぶやいた。
「ばあちゃん、かあちゃん、おかあさま、ママ、おはようございます。
今日もわが家族を、よろしくお見守りください」
仏壇の上方、染みが味わいとなっているしっくい壁の梁に飾られた、四枚の遺影を見上げた。
左端のモノクロの写真は髪を綺麗に頭頂部でまとめあげた老女が、和服姿に柔和な笑みを浮かべている。
その横に並ぶ三枚の写真は、いずれもカラー写真だ。
老女の横には、目鼻立ちのかなり整った三十歳代半ばと見受けられる美しい女性が、純白のブラウス姿で写っている。
その面立ちは見上げる彦一と、よく似ていた。
現在の彦一より年齢は少しだけ上のようだ。
三枚目の写真には、二十歳代後半らしい若い女性が、白衣姿で写っている。
首に掛けた聴診器から、女医と推測できる。
聡明でキリッとした目元は、細いフレームの眼鏡がクールな印象をあたえるが、微笑んでいる口元には優しさがにじんでいた。
そして四枚目。
アイドルタレントかと思われるほどキュートな笑顔に、爽やかなレモンイエローのドレス姿で、ヴァイオリンを弾いている。
二十歳を少し越したくらいの年齢と見受けられた。
懐かしさに少し眉を寄せ、もう一度仏壇に手を合わせると、「よっこらせ」と立ち上がった。
「ふわーあっ、あっと。
眠たいねえ」
大きく伸びをすると、仏間の障子を開けて廊下へ出た。
庭に面した廊下の窓ガラスから、小さな庭にちらりと視線を送る。
ギシギシと廊下を歩く素足が音を立て、仏間横の障子の閉まった部屋前で止まった。
「じいちゃん、起きてるかい。
朝だよ」
物音ひとつ聞こえてこない。
「ちっ、じじいの野郎、またどこかへしけこんで飲んだくれてるよ、これは。
他所さんで、迷惑かけてんじゃないだろうなあ」
障子戸を少し開いて、のぞき込んだ。
六畳のその部屋には、真ん中に大きな灰皿の乗った小さな卓袱台があり、壁には古いタンスが置いてある。
もちろん、部屋の主はいなかった。
彦一は首をふると、廊下を進む。
次の部屋は十二畳ほどの広さがあり、ここが絢辻家の、団欒場所の居間であった。
テレビや本棚があり、一枚板で作られた年季の入った大きな座卓が、真ん中で存在感を表している。
その部屋の奥が、台所となっていた。
「さあって、それでは朝飯とお弁当を作っちゃいますか」
眠気覚ましと気合注入のため、ぺしぺしと頬を叩いた。
台所に立つと、フリルのついたショッキングピンクがまぶしい、メイド用のエプロンを、手早く作務衣の上から着用する。
「しかし、どうよこれって。
いくら町内商店街の福引で当たったからってなあ。
まあ、家のなかだから、かまやしないけど。
でもなあ」
フリルを指ではじいた。
冷蔵庫の扉を開けて素早く確認すると、「よしっ」とうなずく。
絢辻家の朝食は、和食が定番だ。
焼き鮭に、納豆と味噌汁。
具は豆腐とワカメに決めた。
夕べ残しておいた、マカロニサラダを皿に盛り、代々引き継がれている糠床から、胡瓜と人参を箸休めに出そうかと、床下収納の蓋を開ける。
そこには糠床の入った陶器のかめ以外に、梅干しやらっきょうの瓶も収納されている。
すべて彦一の手作りだ。
鮭を四枚コンロで焼きながら、茶ダンスからプラスティックのお弁当箱を、ふたつ取り出した。
ひとつは、小さな女子用。
もうひとつは、建築現場で職人が食べるような、かなりでかいお弁当箱である。
お米はいつも午前五時半に炊き上がるように、タイマーセットしてあった。
本日のお弁当のおかずには、刻んだネギを少々混ぜた玉子焼きにウインナー、さらに昨夜仕込んでおいた、ピーマンの肉詰めとプチトマトを、彩りよく配置する。
冷蔵庫の野菜室からブロッコリーを取り出し、茹でる準備に入った。
見た目にも栄養面でも、ブロッコリーは欠かせない。
いたむのが早いから、これは必ず朝に茹でる。
ドタドタッと、勢い込んで二階から下りてくる足音が聞こえた。
「おにいちゃん、おっはよう」
「おう、つぐみ。
おはよう。
今日も、いいお天気だぞ」
彦一は振り返り、ニッコリと微笑んだ。
二階から急いで下りてきたのは、妹のつぐみである。
ブルーのスエット姿は、寝起きなのだろう。
つぐみはこの春に、二十歳になった大学二年生だ。
大学では建築学を専攻しており、将来は一級建築士として、ひとり立ちするという夢を持っている。
小顔に、ボブカットがよく似合う。
仏間の白衣姿の女性に似た、利発そうな美人だ。
「ごめんね、おにいちゃん。
今日こそは、手伝おうと思っていたのに」
「なになに、家事はこの兄に任せなさいな。
また勉強で、遅くまで起きていたんだろ」
「うん、宿題が溜まっちゃって、てへへ」
つぐみは可愛い舌をのぞかせる。
彦一は優しげな視線を送りながらも、手だけは動かしていた。
「ご飯が済んだらさ、洗濯するから。
ちゃんと洗濯かごに、入れとくんだぜ」
「あっ、でも、おにいちゃん。
そろそろ下着は、自分で洗うから」
彦一は意外そうな表情を浮かべた。
「なに言ってんの。
家族なんだから、遠慮するこたあないよ、つぐみ」
「い、いやあ、そうは言ってもね。
わたしも、もう二十歳だよ。
花も恥じらう乙女、なんだから」
そう口にしたとたん、彦一の眉が下がり、今にも泣きそうな表情を浮かべたことに気づく。
「つぐみぃ。
にいちゃんは、悲しいぞ。
なぜこの兄に、遠慮なんてするのさ。
今でも鮮明に覚えてるんだ。
あれは俺が十二歳のときだったっけ、つぐみが産声をあげて、この世に誕生したのは。
おかあさまは、難産でなあ。
つぐみの命と引き換えに、天に召されちゃったわけだ。
そのとき、にいちゃんは誓ったんだ。
つぐみはこの兄が、必ず立派に育てますってなあ。
おしめを替えて、ミルクを飲ませてさあ。
夜泣するつぐみをにいちゃんはよ、ねんねこで背負って、あやしたっけなあ」
始まった。
始まってしまった。
つぐみは、あわてて話題を変える。
「あっ、そうだ!
ひばりを起してこなきゃ。
あの子は目覚まし時計だけじゃ、絶対に起きないから。
ちょっと起してくるね」
わざと明るい声できびすを返し、再び二階へ足音を立てて駆け上がっていった。
「にいちゃんはなあ、つぐみ、ってあれ?
どこへ行った?
ああっ、鮭が焦げる!」
彦一はあわててコンロから菜箸で鮭を持ち上げた。
**
愛知県ナゴヤ市。
政令指定都市であり、二百三十万人の人口だ。
メーエキと地元民が呼ぶJRナゴヤ駅
は東海道線の要であり、新幹線や在来線が行き来する、巨大なステーションである。
メーエキの西側、中村区陽だまり町には昔ながらのアーケード街、「陽だまり商店街」が、いまでも活気を帯びていた。
大きなスーパーやショッピングセンターの台頭により、シャッター街と化した商店街は多い。
陽だまり商店街はそんな逆風のなかでも生き残りに知恵を絞り、いまではインバウンド効果で、海外から訪れる観光客も引き寄せるほどの、人気アーケード街となっている。
若者に人気のあるスイーツ店やカフェ以外にも、昔ながらの八百屋や肉屋、薬局など、新旧入り混じった味のある商店街なのである。
ナゴヤ市で最も有名な商店街は、中区大須にある「大須商店街」だ。
規模はそこまで大きくはないが、陽だまり商店街は、小粒ながらも頑張っているのであった。
**
つぐみは二階へ駆け上がった。
二階には、六畳間が四つある。
左手奥の部屋のドアを叩いた。
「おーい、ひばり、朝だよう」
これくらいでは、夢の世界からもどってこない妹の性質を、熟知している。
木製のドアを開けて室内へ入った。
ひばりはこの春から、高校へ進学している。
高校は彦一、つぐみと同じ、ナゴヤ市立本郷高校だ。
偏差値が高く、有名な進学校である。
部屋のなかはベッドに勉強机、洋服ダンスに本棚、それにコンパクトな化粧台があり、ほぼつぐみと同じような配置だ。
つぐみはベッドの横に腰を下ろして、妹の寝顔をのぞき込んだ。
「ひばりはママに似て、ほんと可愛いね」
言いながら、指先でふっくらとした頬をつついた。
「朝ご飯、なくなっちゃうぞー」
赤ん坊みたいに、横向きになって丸まっているひばりの耳元でささやく。
いきなりひばりの大きな目が開いた。
「ええっ!
大変だあ!」
ガバッ、と上半身を起こした。
彦一と同じ、天然ウエーブのかかった柔らかそうな髪が、寝癖で乱れている。
つぐみは兄妹のなかで唯一のストレートヘアなので、たまにうらやましくなる。
「あっ、つぐみちゃん」
真ん丸な可愛いらしい目元をしょぼしょぼさせ、ベッドに腰掛けるつぐみに気づいた。
ひばりは姉のことを、幼いころから「つぐみちゃん」、と呼んでいる。
つぐみは妹の頭をなぜた。
「さっ、おにいちゃんが美味しい朝ご飯を作って、待ってるよ」
ひばりは嬉しそうに目を細めた。
その表情は、遺影の一番若い女性と瓜ふたつであった。
「うん!
アタシはぁ、彦ちゃんのご飯が、一番好きなの」
「お弁当もあるからね。
ちゃんと学校へ行って勉強するんだぞ」
「もっちろん。
猛勉強して、将来は彦ちゃんがなれなかった、宇宙物理学者になるんだから」
四つ下の妹は、ニコニコしながら宣言する。
「そうだよね。
おにいちゃんはわたしたちのために、夢を諦めなきゃいけなかったから。
ひばり、ファイトだ」
「うん、つぐみちゃんも早くお金の稼げる建築士になってぇ、このお家を建てなおそうね」
姉と妹はガッツポーズをとった。
つづく
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