フレーム問題

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フレーム問題

 深酒に溺れた未明の気だるさを残す、アルコール臭い欠伸を嗅いだ男は思わず嗚咽を漏らした。  二日酔いではないものの、アルコールの分解に勤しんだのか、鈍感なリアクションを返す四肢は疲労感を覚えている。まるで他人様(ひとさま)の体を間借りしているような違和感に悪態を吐きながら、砕けたように覚束ない腰を持ち上げた男は漸くと云った鈍重さでベッドから起き上がった。  「あ・・・・・はぁ?」  ベッドから起き上がった男は下腹部の下の方で所在無さ気に揺れるイチモツに気付くと、慌てた様子で背後のベッドを振り返り、乱れたシーツを剥ぎ取った。  昨日は・・・未明まで飲み明かしていた記憶がある。アルコールを摂っても一般的な、平均的な酔い方をしない男は深酒をしても記憶をなくしたりはしない。体が不快感に苦しめられるだけで理性は8割弱を下回らない。はっきりしているとは云えなかったが、理性を損なうまではいかないケースが殆どだ。  夜の9時に飲み始め、二件目のカラオケで軽い飲食を済まし、迎えた11時に二件目の居酒屋に入った時はまだ十分な余裕があった。胃袋は酒をはじめとした液体で一杯になっていたが、肝臓のアルコール分解能力はさほど落ちていない―――つまり、肉体的に感じる酔いは然程ないと思われた。  取り敢えずビール、と社交辞令の挨拶でもかけるように店員へ注文を頼み、チューハイ、梅酒、ワイン、日本酒、ウォッカ、チャンポンと飲んでいった。チャンポンを飲むまでに数回嘔吐したものの、意識ははっきりしていた。ただ、ハンマーで殴られたような鈍痛が響いてはいたが。  タクシーを呼び、始発の電車が走り出すのではないか?と思わせるような、遠くが白み始めた朝焼けを横目に自宅へと戻り、そのままベッドへと突っ伏し、泥のように眠ったのが確か朝の4時頃。風呂も入っていない。トイレも行っていない。服を脱ぐ可能性のある行為は何一つしていない筈だ。  だが、自分は裸だった。  どこかのドラマか、漫画のように見知らぬ女性を連れ込んでしまったのか?とそんな甲斐性もないのにふとそんな不安に駆られた男はベッドのシーツを捲り上げたが、そこには当然のように何もなかった。  「何だ」とホッと胸を撫で下ろした男は貧相ではなかったが、冷たくもない外気に晒され縮こまった自分のイチモツを見遣ると失笑を零し、「男の裸は絵にならんな」と呟いた。  平均的な男性よりは若干毛深い男の下腹部は余分な体毛が付いている。意味もなくその体毛を毟り取った――毛並みを揃える程度の力で無駄毛を抜き取った男はリビングと呼ぶには狭い隣室の居間へと向かった。  テレビの主電源を入れ、時計を見る。今日と云う一日の残り時間と、どれだけ寝ていたのかを確認した男はテーブルの上に放置されているテレビのリモコンを手に取り、この時間帯に見慣れた○○局の報道番組にチャンネルを合わせる。  「だるい」  二日酔いは単なる疲労感に代わり、高揚感も不快感の欠片もない。だが、四肢は筋肉痛とは異なる痛みに軋んでいる。  テーブルの上の急須を手に取り、茶葉を入れる。電源の入れっ放しだった自動湯沸し機能のあるポットからお湯を注ぎ、お茶を淹れた。安いお茶の所為か、それともそう云う配合が美味いのか、この茶葉は抹茶が混じっている。湯気が立ち込める水面の上を溶けきらなかった抹茶の粉が踊っているのが見えた。  茶葉の詰まった缶を、テーブルの何時もの場所に戻そうとした男は携帯電話の充電器の横に落ちていた鍵――見慣れているが知らない鍵。知っているが見覚えのない鍵が置いてあるのに気付いた。決してデジタルなセキュリティなどないであろう金属の凹凸のみで施錠する、その一般的な形の鍵には安っぽいタグが縛ってある。  「あッれぇ~。知らねぇ鍵だな」  どんな鍵でも寝室のデスクの上か、テレビの上に放置するのが習慣となっている男にとってテーブルの上に鍵を放置すると云う事は滅多にない。  それが知っている場所の鍵だとしても。  鍵に縛り付けてあるタグには駅名と三桁の数字が彫ってある。裏には管理会社の名前と電話番号がある。二つ先の駅――新幹線が止まるその駅にはコインロッカーが多数存在する――の名前が見える。  恐らくこの鍵はそこのものであろう。  何度か使用した事のあるコインロッカーだし、未明まで飲んでいた居酒屋もその近辺にある。この酔った勢いで、意味もなくコインロッカーを使用したと云う可能性は勿論あるだろう。自身が裸であった理由も判然としない状況なのだ。今までに経験した事がない――酔い潰れて記憶を飛ばす事がなかったとは云え、昨晩それを初めて経験した可能性は十分にあるだろう。  「・・・・・・何だろう?ロッカーに服を突っ込んで、裸で帰って来た―――なんてないよな」  そりゃ警察に捕まるって。と云うツッコミを心の中だけに止めた男は兎に角シャワーを浴びようと、この謎を保留にしたままバスルームへと向かった。  服を着てなかったので一手間だけ楽を出来たが、ふと覗いた鏡に映った自分の姿に何故か失笑を零してしまったのは、やはり自覚をしていないだけでまだ酔いが残っている証拠なのかもしれない。  バスルームに入った男はシャワーのノズルを捻って熱いお湯を頭から浴びた。  徐々に意識ははっきりとしてくる。どこからが曖昧で、どこからがはっきりとしたものなのか定かではないが―――少なくとも瞼の裏に止まっていた睡気は、この熱い飛沫に洗い流されているようだ。オブラートのように意識の出力結果を翳らせていた睡気が湯気と共に晴れていき、未明の事を鮮明に思い出させる。  やはり記憶はなかった。  コインロッカーの鍵も、自分が裸である理由もわからない。普段よりも泥酔していた事は間違いないのだが、暴走した記憶はない。道端で嘔吐してしまった事に若干の罪悪感を思い出しただけで、それ以外の疚しい事は何一つなかった。  暫く熱いお湯に集中していた男はシャワーを止めると、体の何処も洗わずにバスルームを後にした。脱衣所に立ち、水滴が滴る坊主頭をざっくばらんにバスタオルで拭き、体を乾かし、居間へと戻った男は、点けたテレビから流れるニュース番組に耳を傾けながら冷蔵庫の扉を開ける。  「朝飯要員がいないなぁ」  冷蔵庫にはコンビニで買い置きしたカップデザートがひとつあるだけだ。マーガリンにバター。調味料やスポーツドリンクと云った腹の足しになりそうもない食材はあるが、朝食になりそうな物はなかった。  カップデザートを手に取り、キッチンに放置したまま――洗ってあるが、棚に仕舞っていない。乾燥機の上に置いたままのスプーンを口に咥えると居間のテーブルへ男は戻る。  シャワーを浴びていた時間は10分もなかった。その間で適当な温度に冷めたお茶を一口だけ啜った男は、嗽(うがい)でもするかのように舌の上で転がしてから飲み干した。少しだけ酸っぱい口臭がお茶の香と共に鼻腔に広がり、未明の吐瀉物の残骸が洗い流された事を確認すると、男はカップデザートの蓋を剥がし、スプーンで中身のプリンを掬い、頬張った。  「鍵・・・・鍵・・・・裸」  うわ言のように繰り返しながら昨日より以前の記憶も男は検索してみる。  あの駅に設置されているコインロッカーを使ったのは一ヶ月前だ。野暮用でT県に行った時だろうか。駅近辺には何度か足を運んでいる。電車で通過した事もあるし、下りた記憶もある。現に昨日は飲む事を前提とした会談だったので車を使わず、待ち合わせ場所であるあの駅に降りた。  「・・・・・・・何だろ。拾ったのかな?」  兎に角、一段落したら行ってみようか。  それとも飲み明かした友人達に確認を取るべきだろうか。  行った方が早いかもしれない。  ―――と何パターンかの、休日の過ごし方を検討した男は数秒と思案しない内に「面倒くさいな」と云う結論に至った。  しかし、視界の隅でちらつく鍵の鬱陶しいまでに目立つタグが気になり、完全にこの問題を放棄する事は出来そうもない。かと云って警察や駅員に届ける義理もないし、義務感も沸いてこない。代わりに興味だけが先行しているようだが。  「開けたら死骸が入ってたりとか」  ニュースで死体遺棄事件が発生したなどと報道していた為か、自ら間引いた胎児をコインロッカーに放置する女性の話――小学校の時に聞いた都市伝説だったろうか――を、ふと思い出した男は次に赤ちゃんポストを連想した。どこかの県では育児放棄する母親に代わり、見殺しにされる赤ん坊を救おうと云う名目の下、そんな施設を作ろうと議論しているらしい―――と云う話だ。ドイツだったかオランダだったか、ヨーロッパのどこかでは既に実行されているその施設だが、赤ん坊の人権を尊重する一方で、無責任な親を助長するのではないか?と議論もされているそうだ。一年弱も胎の中に抱えて置いて無責任に譲渡すると云う行為は、男である彼には想像さえ出来ない葛藤であったが、責任を持って間引く方が―――赤ん坊の権利を尊重しているとは言えないが、親としての責任を果たしている感はある。  「何を考えてるんだが」  ひとりそう言って失笑を零した男は平らげたカップデザートをゴミ箱に放り込み、シロップの付いたスプーンを舐めるとキッチンのシンクに置いた。再び居間に戻り、寝室に向かった男は箪笥から下着、パンツ、シャツ、トレーナーを取り出した。色合いや形などバランスを気にしない、引き出しの上にあった順番に取り出しただけの、センスのない服装を着た男は寝室を後にする。  死体遺棄事件を報道していたニュースは政治の話題に代わっていた。内閣入りした大臣の失言に伴う支持率の低下に、意図不明の諸経費計上など―――話題と云うよりも問題の尽きない国会の答弁の映像を横目に男は携帯電話を手に取った。  どうしても気になってしまうコインロッカーの所在を確かめようとしたのだ。  一晩を共にした友人は全部で5人。コインロッカーのある駅に集合したのはその内の3人。会場であるチェーン店の居酒屋で合流したのが残りの2人。自分を合わせて6人で飲み明かした。最後まで付き合ったのは4人。一人は終電で帰りたいと二次会であるカラオケ店の後、電車に乗って帰宅した。見送るつもりはなかったが、駅まで付き合ったその足で三次会である居酒屋に向かった。  「あれ?」  携帯電話のメモリを検索しようとした男は、画面に映し出された着信履歴に気付くと何故か頓狂な声を上げてしまった。不自然なタイトルに、見慣れない送信者からのメールに男は困惑した。  フィルターを通してあるので滅多な事では迷惑メールは届かない筈。知っている人物が新しいサーバーを経由して転送したメールでなければ届かないに設定してある。  メールのタイトルは文字化けしていた。書式の異なるパソコンか、機種の違う絵文字でも使ったのか、全てを読み取る事は出来ないものの、『忘れ物』と云う単語は読み取れた。旧知の人物が新しい携帯電話の機種に換え、自分にメールを送ってきたのかもしれない。勿論、ウイルスや迷惑メールの可能性も否定できなかったが、施してあるセキュリティを高く評価していた男は然して警戒する様子もなく届いたメールを開いた。 ◇  添付されていた写メールに写っていたのは、件の駅構内でコインロッカーを使用する男の姿だった。斜めに切り取られたフレームの中に映し出された男の姿はまるで浮気現場を盗撮されているかのようなポジションで収まっている。駅構内の案内図が飾られている柱の影から撮った思われるその写メールを確認しながら、その位置に立った男は、内容が無題であったメールに言い知れぬ恐怖を覚えた。  背筋を濡らすのは坊主頭から滴った雫ではなく、況してや冷や汗でもなかった。何者かに見られていると云う薄ら寒い、刺すような視線。思わず誰もいない背後を何度も確かめながら、テーブルの上に放置されていたコインロッカーの鍵を握り締め、疲労感に愚図愚図の体で駆け出し、この駅に着いたのはほんの数分前の事だった。  昼を少し過ぎたくらいの、14時前。人通りは多くはなかったが、皆無と云う訳ではなかった。数人のサラリーマンが忙しなく行き交う横を抜け、構内にある売店の斜め向かいの通路の奥、問題のコインロッカーが設置されているスペースへと足を運んだ男は再度後ろを振り返り、誰の監視もついていない事を確かめると、握り締めたまま、少し汗に濡れた鍵をポケットから取り出した。  鍵に縛り付けられているタグの番号を確かめ、ロッカーを探した。001、002、003・・・・012・・・・035・・・・078。男は鍵のタグと同じ番号のロッカーを見つけると、まず周囲に人が誰もいない事を確認した。中学時代に経験した万引きをする瞬間の、確信犯的な行為をしていると云う後ろめたさと高揚感を思い出した男は、不安定に興奮する気持ちを落ち着かせる為に溜飲した。  鍵の形を意味もなく確認した後、タグと同じ番号のロッカーの鍵穴に差し込んだ。若しかしたら鍵が合わないかも知れないと云う期待か―――希望のような願いを頭の片隅で念じていたが、鍵は何の抵抗も見せずに回った。ガチャリと音さえもアナログに聞こえる中、緊張感だけが高まっていた。  扉を開き、男はロッカーの中を覗き込んだ。  「な、何だよ、これ?」  ロッカーの中には、覗く者を捉えるように、レンズを向けるデジタルカメラが放置されて―――いや、置かれていた。まるで仕舞うかのような、整頓した上でそこにあるかのように、不自然な雰囲気を醸し出すデジタルカメラを見つけた男は「な、何で、デジカメ?」と困惑の色に翳った声を上げた。  忘れ物―――?  仮にこれが誰かの忘れ物で、自分が何らかの経緯で鍵を入手したにしろ、デジタルカメラだけがロッカーの中に放置されているこの状況は不自然と云う以外の何モノでもない。いや、そもそもこれが忘れ物と云う事自体がおかしいのだろう。携帯電話より一回り大きいだけの、パスポートか手帳ほどの大きさしかない・・・・持ち歩く事に意味があるようなこのツールをロッカールームに預ける理由が男には想像できなかった。  誰かに渡す為に・・・・。それ以外の目的が見出せない。自分の所にメールが送られて来たのかもわからないのに―――。この非常識ではないが不自然な問題に男は首を傾げ、唸る以外のリアクションが取れなかった。兎に角、これを手にする事を、少なくともメールの送信者であり鍵を置いた人物は望んでいるのだろう――と合点した男はデジタルカメラをロッカーから取り出し、三度、周囲に誰もいない事を確認すると、ロッカールームを後にする。向かって売店を抜け、隣接する立ち食い蕎麦屋の脇の通路を曲がり、駅構内の待合室へと入る。  待合室には先客――まるで待合室を占有するかのように、或いは利用者を追い払うかのように最前列の座席の真ん中で新聞を広げている男――を横目に最後列の端に腰掛けた男はロッカールームから持ち出したデジタルカメラの電源を入れた。  「っつか、触った事ねぇな」  しかし、洗練されたデジタルカメラのデザインは凡その使い方を男に示してくれた。親指の届く所に、人差し指が添えられる所に――と云った具合に適当な場所に設置されているボタンを押した男は何度目かの錯誤の結果漸く中に納められているメモリーを呼び出す事に成功した。  「・・・・・しゃ、しん?ふっつーの?」  一番最初に画面に映し出された写真はどこかの雑居ビルの間の薄暗い通路から空を斜めに切り取ったモノだった。青い空は鮮明な輝きを反映し、白い雲を散らせている。男の住む街中で撮られたものかどうかは定かではないものの、雑居ビルの隙間に囚われたかのように空をフレーム内に納める構図はそれなりの意図か、技術があった事を想像させる。  二枚目に写っていたのはどこかの商店街のアーケードだ。地元じゃない。いや、少なくとも男が足を運ぶ所にはないだろうか。見上げるような形でシャッターが押されているので、アーケードの入り口に掲げられている通り名――看板は見えない。  三枚目に写っていたのは、恐らく二枚目のアーケード内の店舗と思われる軒先を捉えたもの。シャッタースピードを遅くしているのか、道を行き交う人々の残像が半透明でありながらサイケデリックなグラデーションで写っている。その所為で奥に位置する店の看板は見えない――が、どうやら薬局であるらしい事が見分けられた。  四枚目に写っていたのは衣類を取り扱っている小売店だ。取り立てて気になる点はない。カジュアルショップなのか、ラフな格好の店員が映っている。  五枚目に写っていたのは四枚目と同じく店舗なのだが、ランジェリーショップだった。女性の下着を専門的に扱っているようだ。  その色彩鮮やかなインナーの飾りに思わずドキリとした男は慌てて次の写真をフレーム内に映し出した。  六枚目に写っていたのは飲食店。ファミリーレストランでもなければ、居酒屋でも定食屋でもない。小ぢんまりとしたレストラン―――隠れ家的と表現できそうな内装が店内の雰囲気を落ち着かせている。写真を撮る角度の所為か規模は分らないものの、設置されたテーブルは3人が座るのがやっとと云う大きさだ。  しかし、と男は思った。店内をこうも自由に撮影できるものなのだろうか、と。通常セキュリティ問題などで無許可の撮影は出来ないものだと思っていたが―――。店員は素人の挙動をそれほど気にしていないのかもしれない。  それに五枚目のランジェリーショップ。易々と撮影している事もそうだが、平然と店内に足を踏み入れているらしい事実から、撮影者は女なのだろうか。  14枚目に写っていたのはどこかの交差路だ。三車線の十字路を斜めに走る横断歩道を地面すれすれから撮影している。三枚目と同じでシャッタースピードを遅く設定しているようで、行き交う人々は残像をグラデーションにして映されている。三枚目よりも人の数が多いので殆ど何が写っているのかは分らない。残像の向こうに伸びるビル群と、足元の道路が見えなければ写真とさえも思えなかっただろう。  15枚目に映っていたのは何処かの学校。校門の佇まいからは、中学校以上と思われた。堅牢ではないものの、何処か硬質な雰囲気は、緊張感に似た静謐さを伝えてくる。重々しい雰囲気など微塵もない学校の風景は、逆光で三分の一ほど霞んでいた。  16枚目は校内の写真だ。スライド式の扉の上には、音楽室と書かれている。  次の写真は、教室。しかし、音楽室ではなかった。シンクのある特徴的な机の並びに、オレンジ色のチューブに、棒状の物体―――は、理科室、或いは化学室と呼ばれる得意な部屋である事を主張している。写真の奥には黒板が写り込んでおり、何かの実験装置の絵が描かれているのが漸く確認できる。  19枚目に見つけた写真は屋上から校庭を見下ろす形で撮られていた。フェンス越しではないのか、それともレンズだけ隙間を通したのか、写真にそれらしきモノは写っていない。校庭にはサッカーをする生徒や、遠くで野球をする生徒が見える。フレームの端には、テスコートがある。  23枚目に映っていたのは、プレハブ小屋の後ろから、校庭を横に切り取った写真。さび付いた壁越しに、ボールを追い掛ける生徒が数人見えた。  24枚目はバッターボックスの少し後ろから、三遊間にフォーカスを当てた構図になっていた。バッターボックスに選手の姿はなく、ピッチャーの姿もない。外野でフライを見上げる生徒が数人と、グラウンダーに飛び込む生徒がひとり映っている。野球場の外周を回る生徒も、奥に見える。  25枚目はテニスコートでボールを打ち合う生徒がペアで数組写っていた。地面から少し見上げるような、斜めに空を捉えた構図が持つ視線は随分低く見える。  男はふとデジタルカメラのディスプレイから視線を上げた。待合室の入り口近くの席に座っていた先客の姿はなくなっていた。次いで電車を報せるアナウンスが構内に響き渡るのが聞こえた。  「何か、変な感じ」  長時間デジタルカメラのディスプレイに注目していた所為だろうか、残光が瞼の裏に焼き付いていた。疲労している感のある、目を、深く瞑った瞼の上から宛がった指で直接揉み解す。涙が雫を垂らし、頬を一滴、零れた。  「・・・・・・じゃ、次」  26枚目に写っていたのは更衣室だ。  「な、」  男は慌てて次の写真を表示させる。  「な、何?」  再び顔を上げて、待合室を、そのガラス張りの入り口の向こうを男は伺った。行き交うサラリーマンと、観光する老人の姿が見えた。  心臓が大きく脈打っている。  「と、盗撮?」  26枚目に写っていたのは、更衣室ではなかった。女子学生―――体付きと、気持ち派手なインナーからは、高校生と思われる―――が着替えている一室だ。3枚前に写っていたプレハブ小屋なのか、質素な壁が仄かに明るい部屋の奥に見える。ロッカーを前に、女子高生が団欒としながら着替えている。  「は、え、えぇ?」  風景を切り取ったとしか思えない、日常のひとコマを盗撮した写真の次に写っていたのは、変わって河川敷。高架の向こうに、夕暮れを映す段々と赤い空が入り込んでいる。水面に反射する太陽に、長く伸びた影が、忘れかけていた何かを思い出せる。懐かしいと思う一方で、忘れていた、と云う嫌悪感に似た感想が沸き起こる。  男は深い溜息を零した。休憩室は禁煙の筈なのに、吸い込んだ空気は鼻腔の奥で煙たい匂いを伝えていた。  28枚目は繁華街だった。モールではなく、背の低い雑居ビルが乱立するような陰鬱な匂いのする場所だ。フレームの左隅に、僅かに写りこんだ明るい店舗がある事から、どうやらこの写真は裏道か、脇道のようだ。細い道の上に広がった水溜りの上に、不自然なくらい鮮明に夜空が写っていた。切れ目のような三日月が、印象的な残像を見せている。  29枚目、30枚目は残像。何が写っているのか分らない。ネオンの尾だけが、幽霊のように焼き付いているだけだ。  31枚目。  「―――ッ」  偏頭痛に耳の後ろが軋んだ。  「・・・・・誰?」  31枚目は、誰かの手。  32枚目は女性の顔のアップが映っていた。シャッタースピードを上げたのか、靡く女性の髪が鮮明に捉えられている。仄かに赤い頬に、小さな唇が紅で濡れている。睫は長く、目は少し細い印象があるものの、猫のように鋭くも愛くるしい形をしていた。顎は細く、肌も白い。髪型は乱れているので分らない。しかし、美人―――いや、可愛いと思える顔をしているのは間違いない。  33枚目は再び残像。  34枚目に再び誰かの手。  35枚目は黒い床か、壁らしき平面を、水平に捉えた写真が写っていた。  36枚目。  「だ、れ?」  何時の間にか乾いていた喉が言葉を詰らせた。  36枚目の写真は男達が、何かを覗くように見下す姿が映っている。共通しているのは、何処か卑屈な笑みを浮かべている点だ。  37枚目も残像。だが、中心に大きな輝きを見せる電灯らしき物が窺える。  38枚目。  39枚目。  40枚目。  41枚目。  42枚目。  43枚目。  44枚目。  45枚目。  連続する動作を捉えたそれらは、断続的ながらもそこに囚われた被写体の抵抗振りを映し出していた。  32枚目に写っていた女性が何かを払い落とそうとする、退けようとする動作が、黒い床を這うように逃げ惑う姿と共に連続して映し出されていた。  「――――――、」  男は感想を持ち得なかった。  続いて46枚目。  服を切り裂かれ、男達に組み伏せられ、大の字に寝そべる女性が、47枚目で消えた。  48枚目。  49枚目。  50枚目。  残像、残像、残像と続いた51枚目。  男はそれが何か直ぐに分った。  凹凸を残し、僅かに赤く染まった肉襞は、白濁とした赤で飾られている。周辺の肉は擦り切れたように赤く、だが、濡れていた。  「・・・・・アップで撮るもんじゃねぇな」  女性器を無理矢理広げ、それをフレームに収めた写真は、内臓のような生々しさと、レイプと云う非現実的な姿を同時に映し出している。込み上げて来る嫌悪感が、喉を焼きそうになるのを抑えつつ、男は次の写真も見てみたいと云う衝動に駆られていた。  52枚目。  赤い残像。  53枚目。  灰色の残像。  54枚目。  茶色い残像。  55枚目に、霞んだ人影が写っていた。  56枚目は55枚目と同じ構図で、フォーカスだけが合っている。フレームの真ん中に、粗末になった服を纏った女性が佇んでいる。色調を調整し、コントラストを強めると、女性の赤く染まった頬が良く見えた。  「血だ」  女性の顔は白濁とした液体以外に、薄っぺらい鮮血が付着していた。彼女の左手にはパイプなのか、灰色の棒が握り締められている。鉄パイプか―――そう云った類の物のようだ。  57枚目。  耳から血を出した男を見下ろす影が、地面に突っ伏した躯体と共に写っている。  58枚目。  黒い壁。  59枚目。  「ちょ、何だよ、これ?」  男は見覚えるのある風景が、黒く染まった写真に食い付いた。  彼の住むアパートに向かう、見慣れた道だ。切れそうな街灯が、心許なく夜道を照らす、寂れたそこは、男が通い慣れた場所である。  60枚目は、男のアパートを見上げる写真。自分の部屋に明かりは灯っていない。  61枚目は既に部屋の中だ。  見覚えるのあるテーブル。  見覚えのあるテレビ。  見覚えのある冷蔵庫。  見覚えのあるシンク台。  薄暗い部屋に僅かな光を届ける、足の短いカーテンは少し濁った、汚れた色をしている。  62枚目。  そこには鏡に写った、36枚目の女性。風呂上りなのか、程よく高潮した全身がバストアップで写っている。  「カメラがない」  男は鏡に、ただ女性が映っている事に気付いた。  「・・・・・・・・は、?」  不愉快な気持ちだけが込み上げて来る男は、もう無意識に次の写真を映し出していた。  63枚目。  裸のまま、これも見慣れたベッドに潜り込む女性がディスプレイに映し出されている。  64枚目は、暗闇を映した黒い画面に現れる。  そして迎えた65枚目。  ロッカーを覗き込む男の姿がフレームに映っていた。  背筋が凍り、静電気が走る。  擦れた呻き声が、緊張し、萎縮した体から搾り出される。  「ッひ―――」  男はデジタルカメラを放り投げそうになる。  だが、待合室を覗く女子高生に気付き、男は自粛する。  デジタルカメラを握り締め、体を抱いた。  ガタガタと震える自分の体が、まるで変化するかのように粟立った。  男はそのまま、待合室のベンチの上に蹲った。  「何だよ、これ」と呻いた男は未だ此方を覗く女子高生が気になった。  待合室の奥、隅のベンチの上で体を抱く女子高生に気付いた男は、「大丈夫、か?」と戸惑いながらも声をかけた。普段の彼なら絶対にしない―――しかし、それほどまでに女子高生の様子は尋常ではなかったからだ。  待合室の空気は、空調が利いていないのか、何処か滞っている。異臭はないのに、生々しさや、生暖かさに似た人間臭さ―――雰囲気が漂っていた。思わず躊躇しかねない、違和感を覚えながらも男は入室する。  天井の向こうで電車が通過する。  アナウンスが響き渡る。  男は視線を上げた。  「貴方なの、?」  女子高生の、短いスカートから覗く白い肌に輝く太腿の上にはデジタルカメラが乗っている。彼女はそれを握り潰そうとでもしているのか、小刻みに震えている。指先が赤く染まっている様子からかなりの力が入っているのは間違いない。  「―――え、は?」  女子高生は顔を上げる。  見覚えるのある、男の顔。  見覚えるのある、男の声。  見覚えるのある、男の体。  「返してよッ!!!」  女子高生はベンチから立ち上がると、男の首に指を突き立てた。  洗面台の、鏡が割れた。  男は、「どうした?」と半裸の女の方を一瞥した。  「ううん、別に」  割れた鏡に背中を向けると、見慣れた笑顔を作り、手にしたデジタルカメラを放り投げた。
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