見えるもの、見えないもの

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そんな人間が、何故眼鏡の予備を用意していなかったのか。どう考えてもリスク管理ができていないのにも程があるだろ、という意見ももちろんあるだろう。僕もそう思う。これに関しては、僕の非常に億劫がりで怠惰な性格、という一文で片が付く。このどうしようもなく自堕落な性格には、生まれてこの方ずっと苦しめ続けられているのだが、性格というのはここまで年齢が進んでしまえばどうにも矯正しがたいものだ。例えば歳を取って性格が丸くなった、なんて話を聞くことがあるけれど、どうだろう、歳を取って勤勉になる、ということはありえるのだろうか? ともかく、過去を悔やんでも仕方がない。過ぎたことをくよくよと悩んでいても進展はない。いま問題なのは、僕の視力が壊滅的で、予備の眼鏡もないためどうしようもないという現実である。 補足で説明を入れるならば、僕は大学生活を初めてから一人暮らしを行っている。そのため、家族に視覚的な補助をしてもらう、というようなことは難しい。誰か――例えば友人を呼べばいいという意見もあるかもしれないが、そんなことに付き合ってもらえるような友人が僕にいるという、当たり前みたいな前提条件がそもそも存在していない可能性も考慮してもらいたい。 ひょっとすると、これはあれかもしれない。いわゆる『詰み』という状態なのでは? 「……眼鏡を買いに行く眼鏡がない」 ああ、無情。 僕は嘆きながら、ベッドの上から立ち上がった。 枕元に薄ぼんやりと黒いものが見える。手を伸ばして引き寄せてみれば、思った通り僕のスマートフォンだった。電源をつけて画面を見れば、時刻は18時頃。窓からはうっすらと赤みを帯びた夕暮れが差し込んでいる。 考える。眼鏡がなく視界が半径1メートルほどしかない状態で、眼鏡を買いに行くというミッションは果たしてどれくらい難しいものなのだろうか。やってみたことがないのでわからない。けれども、結局のところ僕が新しい視力を手に入れるためには、このミッションを攻略するしかないのである。 携帯を顔に近づけ、操作する。インターネットで近所の眼鏡ショップを探す。生憎と独り暮らしを初めてから、眼鏡を壊した経験はなく、必然的に近くの眼鏡ショップの立地を僕は知らない。よって、ここはインターネットという文明の利器に頼ることを選択した。 恐らくは現在、世界的に最も有名な検索エンジンを利用した結果によれば、どうやら近所には三軒ほど眼鏡ショップがあるという。現在の時刻は18時。できるだけ早く眼鏡を入手する必要があるので、可能なら今日のうちに行ってしまいたいことを考えると、閉店時間までに余裕がある店舗が好ましい。 特に現在の僕は、視覚に大きなハンディキャップを抱えている。仮に無事店までたどり着くことができたとしても、かかる時間は通常時の比ではないだろう。 そうした考えのもと、導き出された結論は、20時まで営業している個人経営の眼鏡ショップに行くというものだった。住所を改めて確認してみても、十分歩いていける距離にある。 「善は急げだな」 別に善ではないが、何となくそう口に出して、僕は上着と財布を探す作業に移る。もっとも上着はベッドの近くに掛かっているし、財布は所定の場所にあるので眼鏡が無くてもそれほど苦労せず見つけ出すことができる。後は、まあ、壊れた眼鏡も一応持っていこう。修理ができるかもしれないし、レンズを作るのにも役に立つかもしれない。ケースに入れて、ショルダーバッグに入れて持っていけばいいだろう。 窓から差し込む夕暮れの赤い光。これが夜の暗闇に変わる前に眼鏡ショップへと出向き、できれば家にまで戻ってきたいところだ。ただでさえ悪い視界が、夜色に席巻されたとき、僕はきっと、本当に何も見えなくなってしまうだろうから。 壊れた眼鏡を眼鏡ケースにしまいながら、そんなことを思った。
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