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 「絶対に、近寄ってはいけません」  森は、お屋敷の敷地だから。  もし、迷い込むようなことがあったら。  もし、見つかってしまったら。  「もう、二度と戻ることはできないのよ」 **  その森が、幼いころから母に聞かされていた「それ」であることを、迷い込んでずいぶんたってから、やっと、月子は気づいた。  最初は、夢のように美しい場所だと思った。  梅雨が間近に迫る季節は、あらゆる植物が生き生きと輝く。鮮やかな緑は健やかに伸び、地べたには優雅なつる草が自由に貼った。けもの道をふさぐように倒れた大木は、蔦や柔らかな苔を纏う。  チチチ。  小鳥たちは楽し気に遊び、梢の枝から枝へ渡った。  これは、さっきも来た場所。  気づけば同じところをぐるぐると回っている。月子はもう、ずいぶん歩いていた。    「安藤さん」  と、月子は時々立ち止まっては、かくれんぼの相棒の名を叫んだ。安藤みかは、無口で人を寄せ付けない月子に、ようやくできた友達だった。  かくれんぼしましょうよ、素敵な場所があるの。  安藤みかに誘われて、町外れまで来た。丘を越え、車どおりが少ない場所に出ても、安藤みかは歩みを止めなかった。さあ、緑野さんが鬼。わたしが逃げるから、十秒経ったら追いかけてきて。  するすると風が通り抜け、できたばかりの友達の足音を巧みに消した。  くすくすという笑い声、ぱたぱたとした足音が頼りだった。言いなりになってきっちり十秒、目を閉じ、開いた時、もうそこには安藤みかの姿はなかった。  広々とした草むらには、隠れる場所などどこにもない。友達が身を潜めたとしたら、すぐ目の前に広がる謎めいた森の中しか考えられなかった。  月子は夢中になって森に飛び込んだ。そして、細い道に沿って走り、友達の姿を探した。  「安藤さあん」  こつこつこつこつ。  鳥だろうか、動物が木の高いところをつつく音が響く。森ではあらゆる音が通った。木の葉の擦れ合う音、虫が鳴く声。月子の叫びは、高い木々の間を跳ね返りながら、森の中をこだました。  (どうしよう)    もう、一時間以上経っていると思う。ここに迷い込んでしまってから。  足は痛み、息は切れている。ざわざわと梢は風に揺れ、木々の枝を透かして入る太陽は緑がかった光を地面に落とした。  どうして気づかなかったんだろう、と、月子は思う。  町の外れ、丘の向こうには森がある。その森には絶対に近づいてはならない。小さなころから聞かされてきたことだ。  母は仕事から帰り、疲れ切った顔をしながらも、月子が寝入るまで優しかった。とんとんと布団の上から体を軽く叩きながら昔話を語り、やがて月子が眠りに入ろうとする間際に、必ず呟いた。  「ね、森には近づいてはいけないのよ。もう二度と戻ることができなくなるから」  その森の向こうには、お城のように優雅なお屋敷がある。  そこは、町一番のお金持ちが住んでいるけれど、ひっそりと、人目を忍んで暮らしている。  町にたくさんのお金を寄付していて、学校や、いろいろな施設は、すべてお屋敷の力添えにより成り立っている。だから、誰もお屋敷の人に頭が上がらない。  けれど、お屋敷の人は、絶対に姿を現さない。    「人嫌いの一族だから」  と、不思議がる月子に、母はそう教えた。  「お屋敷の人は、敷地に誰かが近寄ることを極端に嫌う。万が一姿を見られてしまったら、許してはくれないかもしれない」  許してはくれない。  その一言が、幼い月子には、たいそう恐ろしかった。  優しい母の声音が紡ぐ、町はずれの屋敷の物語は、薄暗く謎めいて、同時にどこか、魅惑的だった。絶大な富を持つ一族、森の向こうのお城。月子は、屋敷を恐れる一方で、ぜひ行ってみたいと思っていたのかもしれなかった。  時は過ぎ、月子は小学四年になった。  母は仕事が忙しくなり、夜遅く、月子が寝てからではないと帰らなくなった。  一人でごはんを食べ、風呂に入り、寝て学校に行く。淡々とした生活の中で、月子は幼い時に聞かされた、謎の屋敷のことを忘れていた。  まさか、その森に迷い込んでしまうなんて。  迷い込んでしまってから、ここがあの、禁断の森だと気づくなんて。  友達を呼ぶ声も、疲れて枯れた。  空は陰ってきたようだ。あたりの緑は深く濃くなり、月子はついに地面に座り込んだ。ずきずきする足を庇い、天を突くような木々の高さに怯えた。  ぎゃっ、ぎゃっ。  鳥の声が荒々しく響き、月子は体を小さくした。
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