Le chat rouge

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1. 忘れ物  サン=ジェルマンでひっそりと、アリスはカフェLe chat rougeを営んでいた。  ギャルソンの制服で、その中性的な風貌は、しばしば男性と思われた。愛想の良い方ではないが、料理の腕や品格を評価してくれるのがパリジャンの良い所である。  最近、常連客となったアレクシィ・ヴィオレイが扉を開けた。 「ボンジュール、ムッシュー」  彼はボソッと低い声でボンジュールと返して席に着くと、脚を組んで小脇に抱えていた新聞を広げる。隅っこのカウンター席が彼のお決まりの場所だ。何の会話もすること無く一人の時間を過ごす。何とも言えぬ哀愁を漂わせる彼に、アリスは興味が湧いた。  「どうぞ」と静かにアリスはコーヒーを出す。彼は、殆ど体勢を変えずにお代を払う。その時、彼は新聞から少し顔を覗かせ、その鋭い目がこちらを見上げた。 「"Le chat rouge"(赤い猫)。…変わった名ですね。何か意味があるんですか?」  初めて話しかけたられたので、アリスは一瞬驚いた。 「特に意味は…。私が赤毛で、よく猫の様だと言われるものですから、何となく付けたのですよ」 「そうですか」  聞いておきながら、さして興味は無い風に彼は言った。何となく話を続けたくなり、アリスは尋ねた。 「猫は好きですか?」 「いや、苦手ですね。構って欲しそうに足元に纏わりついて来て、触れようとすると引っ掻かれる」  さぞかし嫌そうに眉間に皺をよせた。 「—でも、この店は好きですよ」  そう言って彼は、再び広げた新聞に目を落とし、顔を隠した。 「気に入って頂けて光栄です」  聞いているか分からないが、新聞紙にデカデカと載った大統領の顔に向かって礼を言った。  ぞろぞろとグループ客が来て賑わい、彼は軽く挨拶して出て行った。Le chat rougeと発音する、彼の独特な美しい響きの余韻だけが、空っぽのコーヒーカップに残っていた。  カップを片付けようとした時、椅子の下に手帳が落ちているのに気付いた。あの人のものだろうか?店を閉めた後、好奇心と手掛かりを求めてアリスは手帳を開いた。  ページの端から端まで几帳面な字が綴られている。人の名前と点数が書かれており、「テスト」という単語や「この生徒は…」という文面から、持ち主は教師をしているのだろうと思われた。  1番後ろのページにだけ、広い余白に短い文字の走り書きがあった。  〈赤い猫、赤い髪〉  私の話を聞いてメモしたのだろうか。しかし、何の為に?    落とし物を返そうと、アリスは持ち主が来るのを待った。ドアが開く。いつものルーティンでコーヒーを注文し、新聞に隠れる彼。 「お客様、昨日こちらをお忘れになっていましたよ」  アレクシィは慌ててガサガサと新聞を畳んだ。 「ん…?ああ、どうも」  受け取った手帳を上着のポケットに仕舞う。その後、手持ち無沙汰な様子でコーヒーを啜った。 「赤い猫、赤い髪…って、私のことですか?拾う時に見えてしまったもので…」  アレクシィはむせ返った。 「グホッ…。べっ…別に!あんたのことを書いたつもりはない」 「ふぅ〜ん、そうですか」  アリスは訝しげに目を細めると、ぷいと背を向けた。 「何で怒ってるんだ?」 「別に怒ってなどいません」  そう言ってアリスは別のテーブルへ向かった。何故だか少し、傷付いたのである。もう一度でいいから聞きたかった。Le chat rougeと、私を呼びかける様に言うのを。    彼は話すことなく出て行った。テーブルにはチップがあった。たった一杯のコーヒーで?詫びのつもりなのか…。  しかし、コインの下には折り曲げた紙切れがあった。それは、彼の手帳から破り取られた〈赤い猫、赤い髪〉。その下に一文が付け加えられていた。    ———あなたのことが知りたい。
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