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※ 「この家の娘が死に始めたのは大昔、私の九代前の人間の時代でした。大昔過ぎてそれが確かかはわかりませんが凡そ二百年は前、冬生(ふゆき)の家は随分と長く続いているものです」  当時、この土地でそれなりに地位を築き始めた九代前はしかし、後継ぎという意味では子宝に恵まれなかった。生きることが安定するというのは実に難しい時代、漸く成り立った環境を、このまま自身の家を守り、続けていく為にはどうしても男児の誕生が必要だった。けれど、一人、二人と子供の誕生を迎えては肩を落とし、その都度娘達へ向ける心境にも辟易としていた。  その圧は、勿論彼の妻にも及んでいた。当時の時代背景を考えれば、男児を産まないというだけで相当に苦労がいった。心身ともに蝕まれ、まるで自分の全てが悪いのではないかとも思える程、妻にとっては生きながらに地獄である日々をも過ごしていた。  しかし、無常にも女児の誕生は続く。その度に〝その時の長女〟は、嫁ぐか〝その他の居場所〟へと、家を出されていった。やがて九代前は自身の子供であるはずの娘に対して抱く感情すらもなくなった。それは連鎖して妻への感情ともなり、冷ややかな男となり果てた九代目は無慈悲な行動に出た。  その頃もまた、女児が生まれた。子供の人数は六人になったが、その頃家に残る娘は生まれたばかりの幼子、ただ一人となっていた。  ある日、九代前は突然、男児を連れて家に戻った。その傍らには妻よりも若い女が寄り添い、九代前は腕に抱いた男児を自分の息子であると言う。それだけで若い女が何者であるかは察しがついた。  妻は、なにも言われもしなかった。けれど同時に、その存在はその場にはいないようなものとなった。  出て行けとも、お役御免とも、なにも言われない。毎日これまでと同じような日々が続くが、勿論若い女と妻の扱いには大きな差が生じた。  妻は未だに九代目の妻であるように過ごす、若い女は男児と同じように可愛がられて過ごす。その様を見て妻は気が付いた、自分はこれまで、この若い女のように夫に可愛がられるようなことはなかった。弾むような会話も笑顔も、子供の成長を喜ぶ言葉は、一体どれ程前に聞いた限りであっただろう。初めから、競う余地もなく待遇が違った。言い渡される必要すらない存在だった、夫には随分と前からそう、思われていたのだ。  心を痛めた日々は、なんだったのだろうか。可愛い我が子に申し訳ない気持ちも、家を出させたその行為は、次こそはと思ったあの日々は、どれも、なんであったのかがわからない。どれも一方的に、自分だけが思っていた。夫と生きようと決めたあの日は、共に暮らし、過ごした時間は。  それは長年のしかかった圧から解放されたような瞬間だった。妻の中で張り詰めていたものがぷつりと音を立てて散った。遠くから男児の泣く声と、あやす若い女の声が、側ではただ静かに自身に寄りそう娘の姿があった。  初めから、妻などではなかった。いつしかそれが鮮明な姿となり、男児を産むのが意義にすらなっていた。何故気が付かなかった、何故、ほんの僅かでも夫を疑いもしなかった。  九代前が所要で家を出て戻ったある日。じめじめと湿気の多いその日は扇ぐ襟すら湿っているような有様だった。つい見上げた空は黒い曇天で、今にも雨が降り出しそうだった。  けれど、降った雨は憎しみの雨となった。  九代前が見上げた先、庭の脇に残してあった大きな松の木に、〝妻であった女〟がぶら下がっていた。真新しい縄で首をくくり、恐ろしい姿となってぶら下がっていたのだ。  ぎい、ぎいと枝が鳴る音が、既に折れた、妻であった女の首が締まる音に聞こえた。  夫は声を上げ、その場で腰を抜かした。声を聞きつけた彼の若い女もまた、甲高い悲鳴を上げ、尚も松の枝は鳴っていた。 「九代前は自身のしたことで妻を殺しました。結果それは自殺であっても九代前のしたことはそこまで追い詰めたという事実。起こるべくして起こったものですので彼を擁護する言葉もありません。それに、問題はここではないんです。問題なのはこの家にいるはずの、九代前の妻の子供が、どこにも見当たらなかったということなんです」  〝妻であった女〟は松の木で首をくくって死んでいた。その日、ひとしきり騒ぎが終わった後、九代前はふと、気が付いた。この家にまだいるはずの、何人目かも不確かな娘の姿が、どこにもないことに。  この有様になって漸く娘への情が出た九代前は家中娘の姿を探した。いないとなれば周囲の家にも聞き込み、林や井戸の中まで調べていった。けれど、どこにもいない。娘の姿はない。  もしや、と思った。九代前の脳裏に浮かぶのは松の木を鳴らす〝妻だった女〟の姿だ。彼女の着物は血まみれだった。首をくくった所為で出る糞尿すら気にならない程、あの体は血で濡れていた。  もしや、娘を道連れにしていったのかもしれない。けれど、その、肝心な娘の遺体はない。どこにも、まるでそんな人物は最初からこの場にはいなかったかのように。 「今でもその娘の骨も見つかっていません。そして、そこからです。冬生(ふゆき)の家に生まれる女児がことごとく、二十歳も迎えずに死んでいったのは」  一件も落ち着き始め、正式に妻となった若い女が身籠り子供を産んだ。女児であったが既に跡取りとなる男児がいる為、これまでのように家を出すこともなかった。だが、女児は伏せがちで、成長を重ねる度に体は弱っていった。そして娘が十四の時、遂にその命を終えてしまった。  元の妻、そしていなくなってしまった娘に続き新たに生まれた娘までが死に、九代前も流石に気を病んだ。そしてもう一度若い妻が身籠った時には生まれた子供が女児であろうと男児と変わらずの愛情を注ぐと決めた。  子供は無事に生まれた、女児が生まれた。この時の九代目は無事であるだけで構わなかった。  けれどまた同じだった。成長を重ねる度に女児は体が弱り、彼女が十三になった時に命を終えた。 「そこからはずっと、先代の、私の父の代まで同じでした。女の子が生まれると必ず、二十歳を迎えずに死にました。……そうして今が、私の番ということになります」  通された洋間で冬生憲三(ふゆきけいぞう)二葉(ふたば)夫妻と見合う形でテーブルを囲み、座ってからほんの少しの差で先程の黒衣の女性が人数分のコーヒーカップを置いて壁に沿って控えた。そうして冬生ふゆき家に長く続く娘の身に起こる不幸を、冬生憲三(ふゆきけいぞう)の低く太い声が語った。次第に感情が露わになった声は自身の娘を案じてか時折震え、隣に座る妻の二葉(ふたば)も鼻をすすった。  二百年という長い間、例外なく続くこの連鎖に蝕まれ始めた娘を見る毎日は、一体どれ程の痛みであろうか。重い息が漏れる喉が苦しい、ヒムラは出せる言葉の一つも思い浮かばなかった。 「自害した女性の供養は、誰がどの様にしましたか」  表情一つ変えないマチは、同じく一切の感情の動きもない平坦な声で言った。こんな時にまで無感情でいられるマチに多少の違和感はある。けれどヒムラがその表情を盗み見ると何故か怒りの感情が読み取れた。マチは怒の感情が現れる時目元が痙攣する。下瞼が今、ひくりと揺れた。 「九代前が死んだ後、彼の唯一の息子であった八代前も同じく女児が死に、その際に寺の住職に頼んだと伝えられています。残念ながらその寺は空襲で焼け、今は残っていないのですが、八代前は自分の父のしたことというのもあります。強い責任もあって熱心に供養をしたそうですが、結果は、ご覧の通りです」 「松の木は」 「空襲で焼けたようです。見て頂いてもわかる通り、今の庭には小さなものしかないですから、当時のものは残らず」  マチが何事かを考えるように視線を宙に放ったまま動作を止めた。部屋には重苦しい空気が流れ、二葉(ふたば)とヒムラだけが堪えかねたように視線を泳がせていた。互いに目が合ったが、どうしたものか、互いになにも出来ずに空気は流れ続けた。 「いや。とにかくは、長い距離移動して頂いたんです。まずは体を休めて下さい。移動に使ったのはJRと新幹線ですかな、あれは座席が狭いですからね、快適な乗り物ではありますが、体が固まって堪らんでしょう。まずはゆっくりして下さい」 「夕食は娘も一緒に、皆で頂きましょう。我が家は七時に決めておりますが、構いませんか?」 「お任せしてしまうので、いつも通りでお願いします」 「風呂も用意させておきましょう。こうもじめじめし続けちゃ一日一回にもなりません。頼むよ」  冬生憲三(ふゆきけいぞう)が太い健康的な腕を壁の方向に伸ばし、そこに黒衣の女性が控えていることを思い出し、同時に重い空気が散っていったこの空間に漸く背中を伸ばせた。肩が、嫌な重さで鳴った。  ヒムラ達を迎えた時から久し振りに声を発した二葉(ふたば)も、気遣いの為だろう、少しばかり声音が高く、逆にその笑顔に悲しさを感じた。
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