五章(4)

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五章(4)

「だいたい、アトリエ代はお仕事の必要経費なんですから、借金してでもご自分で都合をつけてください」  高成がせっかくの美しい顔を憎々しげに歪め、辛辣な言葉を延々と連ねる姿に、正真は心底呆れてしまった。 「もうっ、高成さんがそんなに意地悪な人だなんて思わなかった!」  通話中でも聞こえるように大声で怒鳴ってから、高成を残してガレージの外に出た。予想通り、高成がスマホを胸ポケットに入れながら慌てて追いかけてくる。  玄関ドアを解錠する間に追いつかれて、一緒に中に入った。  クリーニングで家はきれいになったものの、天井の電気が一つ切れたままだ。脚立を使っても、正真には手が届かなかったが、背の高い百瀬ならぎりぎり届くかもしれない。一つかけた電球を見上げながら明日百瀬が到着したら、頼んでみようと考えていた。  靴を脱ぎ、廊下に上がってすぐの正面に百瀬の金魚の絵がある。母が気に入って、額縁を用意して玄関に飾ってくれた。  センスのいい母が選んだのはブルーのガラスの縁で、その中で大小の仲良しの金魚が心配そうにこっちを見ている。  後ろにいる高成がこわごわと正真の肩に触れた。 「怒らないでください。だって、百瀬川さんが正真くんに近づくのがどうしても心配で……。百瀬さんのアトリエの件は私の方で見つけますから、どうかここを貸すお話はキャンセルして。多少の支払いなんて、どうとでもなりますから……」  高成は全然わかっていないと思った。正真は高成に怒っているのではなく、困っている。  親しくなるまでは高成はもっと穏やかで優しい人だと思っていた。  リリンの編集部で見ていた高成は、とびきりのハンサムなのにとても謙虚で、気配り上手な大人の男性だった。もちろん編集部内の人気ナンバーワンで、男女問わず慕われて、高成はいつもみんなの中心にいた。  百瀬だけは「高成さんは怒りっぽい」とか「俺にはいつも怖えーんだよ」と愚痴っていたけど、到底信じられなくて、正真は「百瀬さんがしょっちゅう遅刻するからだ」と返していた。  だけど、今なら分かる。あの爽やかで落ち着いた姿はビジネス用の仮面で、本当の高成は疑い深くて、感情的な人だ。  正真は百瀬みたいに、高成に叱られることはないけれど、彼の短気にはもう何度も振り回されている。  そう。少し前も、似たようなことでトラブルになった。  正真に週に一度、二時間ほど、現役の医大生の家庭教師と過ごしている。  たしかに何も知らなかった高成が、家の前でばったり先生と出くわして、驚いたのはしょうがない。でもきちんと説明した後も、独りよがりな嫉妬の炎を燃やして、先生を追い払おうとするので、なだめるのに苦労した。  その時も、高成は反省したと言っていたのに、結局口だけだったようだ。あと何回繰り返すつもりなのかと、ため息が出る。 「高成さん、ちょっとのプレゼントで下心だなんだって、馬鹿な妄想はいい加減にしてください。俺と百瀬さんがどうかなるなんて、絶ー対っ、ないから! 大体、百瀬さんには少し前まで、彼女がいたんだって。女の人と付き合っていた人が、男の俺なんて、絶対眼中にないでしょ」 「そんなの何の保証になりますか。私にだって彼女がいたことがありますよ」  思わぬ高成の返しに、正真の胸がズキンと傷んだ。 「あっ、そう……」  過去の経歴がどうだって、べつに構わないと思うのに、しらけたような冷たい声が出てしまった。高成が顔に動揺を浮かべ、発言を取り消そうとする。 「ウソです。本当は、相手の方につきまとわれただけ。私は誰とも恋人になったことなんてありません」  それこそウソでしょと言おうとして飲み込んだ。 「なんでもいいよ。俺が好きなのは今ここにいる高成さんだけ。……それを高成さん自身が疑うなら、どうしようもないな」  百瀬の絵の横を通り過ぎ、自分の部屋がある二階へ進もうとすると、腕を掴む高成の手に阻まれた。 「疑ってなんかいませんっ。だって、さっき電話でも、ずっと一緒にいてくれるって言ってくれたじゃないですか。ねぇそれって、私はとうとう正真くんの恋人になれたってことですよね?……」  高成は首を傾げて正真の反応を伺っていた。だけど正真があいまいにしか返事しないので、じれた様子で、続けた。 「百瀬川さんの件は……わかりました。百瀬川さんが真面目な人柄なのはよく分かってますし、彼を信頼します。そのかわり、約束してください。貸すのはあくまでガレージだけ。お部屋で一緒に過ごしたりはしないでください。それに私の手が空いたときは、いつでも様子を見に来ますからね」 「うん……ありがとう」  振り返った正真の腰に、すかさず高成の手が回ってきた。ピッタリくっつくと体温に混じって正真の大好きな匂いがする。  少し離れた姿見には、正真を抱き、首筋にキスをしている高成の横顔が映っていた。細身で手足が長く、背筋はピンとして、品がある。  高成は文芸部に異動してからは、これまでのエレガントなジャケット姿ではなく、堅めのビジネススーツにネクタイをしっかり締めるようになった。髪も今までより短くして、色白のうなじと、形の良い耳が少しも隠さず見せている。高成が会いに行く作家の年齢や雰囲気に合わせるために、なるべく大人っぽくしているそうだ。  反対に、彼の腕の中にいる、学生服に紺色のパーカーを来た自分はひどく子供っぽく見えた。とても高成の恋人には見えないと思いながら、鏡から目をそらした。 「……今日はもうこのまま、俺の部屋に泊まっていくよね?」  部屋に到着して、お待ちかねのジュースやゼリーを広げた。コレを食べたあとで、いまさら高成の部屋に戻るなんて面倒くさい。だから当然の誘いのつもりだったけど、高成は感激した様子だった。正真を振り向いた目が輝いている。 「正真くんのお部屋にお泊りしていいんですか? じゃあ今夜はここで……」  ソファの隣に座る高成がいっそう近づいてきて、正真の顎に手をあて、唇を塞いできた。今度は触れ合わせるだけのキスじゃない。舌が入り、水音がなる熱烈なキスだった。
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