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一章(1)プロローグ1
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件名:「打ち合わせの日程のご相談」
正真くん、百瀬川さん
お世話になっております。「電子漫画サービス・リリン」編集部の高成です。
このたびはコミック発売決定、おめでとうございます。当部門からの書籍化第一号がお二人の作品とは、私も担当編集者として、嬉しい限りです。
さて、月イチの定例会議について、日程調整のためご連絡いたしました。
6月3日 18時~でいかがでしょう。
今回は、毎月の掲載内容に加え、コミックのための表紙など追加でご相談したく存じます。
よろしくお願いいたします。
───
じめじめとした6月。暑くて重たい制服を着て、駅から「リリン」までの道のりを全力で走ってきた正真は、汗だくだった。
「すみませんっ、遅くなりました…っ!!」
ロビーで受付を済ませ、社員専用の自販機コーナーに飛び込む。
長椅子に、男二人が間を空けて座っていた。
一人はノートパソコンでメールチェック、もう一人はスケッチブックにラフスケッチをしていたようだが、正真の到着に、同時に顔をあげた。
「学校を出る時にちょっと先生に捕まってしまって……」
正真は息を切らしながら頭をさげた。授業が終わってすぐに向かえば間に合うはずが、結果として20分も遅刻してしまった。
「気にしないでください。私も前回、出先の打ち合わせが長引いて遅刻したので、お互いさまです」
穏やかな笑顔を向けてくれるのは、出版社の社員で、「リリン」編集部員の高成だ。無名の若手作家に声をかけ、電子雑誌のリリンに漫画を掲載する仕事をしている。
初めて会ったときは、あまりにハンサムなので驚いた。今日もつい見とれてしまう。品のよいジャケットに細身のパンツ姿、前髪は上げて、きれいな額をすっきり出している。
その上とても優しい。気を利かせて正真に冷たいミネラルウォーターを差し出してくれた。
「それに、高校生の正真くんは学校が優先で当たり前です。走って来てくれるなんて、疲れたでしょう。呼んでくれたら学校まで私が車で迎えに行ったのに」
「ええ……ホントですか?」
冗談だと思ったのに高成は目を合わせたまま、うなずいた。
「もちろん。正真くんのお願いならなんでもきいてあげますよ」
男の人なのに、そんなことを言われたらつい頬が赤くなってしまう。
「…………」
ちょっとだけ二人で見つめ合ったあと、高成が後ろを振り向いた。
「じゃあ百瀬川さん、そろそろ会議室にいきましょうか」
「オッス」
高成の号令をうけて、それまで正真たちをじっと待っていた百瀬川が立ち上がった。
百瀬川はまわりまで華やぐような美貌の高成に対し、痩せた長身に黒いシャツにジーンズ姿。伸びすぎの前髪のせいで目元が隠れていて表情が見えにくい。
おかげで初対面では、付き合いづらく思ったけど、実際は気さくな人で、話すと楽しい。
彼はイラストレーター。、リリンでは漫画を書いている。
この二人との出会いは、一年ほど前。思い付きで投稿した小説が、「リリン」編集者の高成の目に止まったことがきっかけだった。翌月に百瀬川が合流し、今はコミカライズという形で連載されている。
「元気だった?」
会議室に向かう途中、案内してくれる高成の後ろで、百瀬川が声をかけてきた。
「うん。百瀬川さんは? お仕事は順調?」
「元気だけど、仕事は全然だな……」
百瀬川はつい最近、美大を卒業したばかりの駆け出しで、まだあまり仕事が入らないそうで、会うたびぼやいている。イラストの仕事だけでは生活もままならず、漫画の仕事を受けたらしい。初めて見た時、漫画らしくないハイセンスな構図や色調に驚いたので、それを聞いたときは納得した。百瀬川の絵はものすごくかっこいい。
「あはっ、百瀬川さん、やめてよ」
百瀬川はよくちょっかいをだしてくる。
背中をくすぐられて、仕返しすると、今度は頭ごと掴まれて髪を乱される。
つい本気でふざけあって、笑い声を上げてしまい、前を歩いている高成にちらりと見られた。
あわてて百瀬川と目配せを交わし、停戦する。
学校の友達に、こんなに気楽に振る舞える相手はいないし、そもそも正真は人とふざけ合うこと自体あまりない。
百瀬川だけ特別だ。きっと相性がいいんだと思う。
三人で、狭い会議室をさらにむりやりセパレーションで囲った半個室に入っていく。
リリンは、大手出版社『白虹出版』の1部門だ。多種多様な出版物を発行している総合出版社の中で、超弱小部署のリリンに割り当てられたスペースは狭く、小さい机とパイプ椅子だけ。そこに男三人でぎゅうぎゅう詰めだ。
長身の百瀬川は手足が入りきらないようで元々の猫背をさらに丸め、机の上ではもう何度も正真と肘がぶつかっていた。毎回謝っていたらきりがないので、省略することにしている。
「──それじゃあ打ち合わせを始めましょう。まずはコミックの発売についてです……」
高成が場をしきりながら、用意してあったプリントを正真と百瀬川に配る。
連載開始から一年たっている。それなりに好評だったそうで来月に単行本の第一巻が出ることになった。電子版だけでなく、本として書店に並ぶそうだ。
発売されたら、三人でお祝いする約束で、今から楽しみで仕方がない。
だが──、
(やばい、眠たくなってきた……)
今日は定期試験の最終日で、昨日は遅くまで勉強していて寝不足だった。それに連載前から、学業優先を宣言している正真は、二人に任せて話を聞いているだけなので、つい、ぼーっとしてくる。
眠気を覚まそうとプリントをめくると、百瀬川が書いた表紙用の絵があった。
真ん中で煌びやかな主人公が微笑んでいる。彼の風貌は、正真の頭の中のイメージとは全く違う。
インパクトを足したほうがいいという高成の提案に同意して、デザインは全て百瀬川に書き変えてもらった。
百瀬川は気が進まなかったようだけど、正真としては別にいやじゃなかった。むしろ高成の戦略と百瀬川のセンスのおかげで、劇的に魅力的になったことに大満足している。
(今回もすっごくきれいだな……)
見ていて口もとが緩む。この表紙だったら、書店の本棚で目立ちそうだ。
(ん……?)
そのとき何かが、イラストと正真の目の間をフッと通り過ぎた。思わず頭を引っ込める。
飛んでいった方を探すとやはり虫、だけど赤いからなぜか他の虫よりは可愛いく見える……てんとう虫だった。
百瀬川のスネあたりに止まって、モジモジしながらジーンズのステッチに沿って上っている。その動きがたまらなく気になる。
しばらく黙って見ていたけれど、てんとう虫が百瀬川の太ももまで来たところで、どうしてもつかまえたくなって手を伸ばした。
指だけだとてんとう虫はスルリと抜けていく。反射的に両手で包んで捕まえた。
「うわっ、っ? な、なに?」
百瀬川が驚きで声を上げながら、屈んでいる正真を見下ろした。
思いがけず、額がくっつきそうな近さでガッチリと見据えられる。
うっとうしい前髪の奥にあるのは切れ長すぎてキツイ印象の眼だった。目の幅にたいして小さめな黒目が正真を捕らえたままじっと動かない。
「ねぇ、おれの足がどうかした……?」
打ち合わせの邪魔をしたから睨まれているのかと思ったけれど、百瀬川は不審な動きをした正真に不安そうに聞くだけだった。
「すみません、ここにずっと前からてんとう虫がいて…それでつい捕まえたくなって…」
「えっ!? うわ、まじか、取って取って」
百瀬川と高成が見守る中、手をそっと離すとてんとう虫が確かにいた。
またモジモジと上っていこうとしたところで、百瀬川の激しい拒絶にあって飛んでいった。虫が苦手だったらしい。
「大げさですねぇ、」
向かいで高成が呆れていた。
打ち合わせを終えて百瀬川と正真だけが外に出た。高成はまだ残って仕事があるそうだ。
「正真、ハンバーグ食っていかない?」
目の前のハンバーグ専門店を百瀬川が指差した。そういえば先月の打ち合わせの帰り道で、百瀬川に「今度飯でも食いに行こうよ」と誘われていた。
店内は混んでいて、名前を受け付け表に書くと待ち合いのソファにならんで座った。ここも狭くてやっぱり百瀬川の足が余っている。窮屈そうに足を曲げる様が167センチの正真にはうらやましい。
「正真の制服かっこいいね、どこの高校?」
百瀬川に聞かれて、あわててブレザーについたエンブレムを学生鞄で隠した。
「えーっ…と、恥ずかしいから内緒」
今日は約束の時間に遅れて、仕方なく制服のまま来たけれど、出来れば通っている学校は知られたくない。
じつは正真は、大体の人が聞いたことがあるような名門の進学校に通っている。でもそれで、頭がいいと思われて、期待の目を向けられるのが苦手だ。
「はは、どういうこと? なんで恥ずかしいの、そんなヤバイ高校ある?」
「いいの、とにかく。内緒!」
百瀬川は不思議そうに正真を見ていたけれど、すぐにあきらめた。
「正真って、本名?」
「うん。フルネームは梅澤正真だよ」
正しいに、真っ直ぐ。正義感を連想する名前は、正真の記憶にない父がつけたそうだ。
百瀬川の本名は百瀬だと教えてくれたので、これからは百瀬さんと呼ぶことにした。
席つくと、百瀬は水の入ったコップを隅に寄せ、スケッチブックをテーブルの上で開いた。正真はテーブルの向かいから、めくられていく絵を見送る。
「すごい。やっぱり上手だね」
「そう? サンキュー」
画用紙に生物や植物、建築物などが、所狭しと描かれていた。さすが元美大生だけあって、どれも緻密でものすごくうまい。今まで漫画しか見たことなかったから、本音はもっとよく見せてほしかった。
「料理がくるまで、ちょっとお絵かきさせて」
まだ何も書かれていない真っ白なページを出すと、百瀬は膝の上に降ろしてサラサラと書き始めた。
でもやたらと目が合う。なんだろうと首を傾げたら、すごく言いづらそうに目を伏せられた。
「コミックに、15Pの書き下ろしがあるよね。……高成さんから正真は勉強で忙しいから、俺でどうにかしろって言われちゃったんだけど……自信なくて。正真はやっぱ無理?」
聞いて思わず声を上げた。書き下ろしがあるなんて知らなかった。それに高成も随分な無茶ぶりをする。学業優先と言ったのは正真だけど、全部百瀬に振るなんて……。
「ごめん、知らなかった。来月まではちょっと余裕あるし、俺がやるよ」
「ほんと? やった」
百瀬がほっとした様子で笑った。
目元が長い前髪に覆われて見えない分、百瀬と話すときは口元に注目してしまう。顎は細いけれど口の中が広いのか、大きめの歯がすごくきれいに並んでいる。
高成が百瀬に言った”正真は勉強で忙しい”というのは本当だ。
正真はほとんど毎日、学校の補修講義や塾の講座を受けているし、正真が趣味で小説をかいてると知ったら、「こんなことより勉強しろ」と叱ってきそうな身内がいる。
「だから、コミカライズ自体、断るつもりだったんだけど……」
話だけでもと言われて、会いに行った。
そうしたら、熱っぽく見つめられ、手まで握られて説得されてしまったのだ。
「こわっ! それって色仕掛けじゃん。それで正真のハートはやられちゃったのかぁ。高成さんは魔性の男だな」
話を聞いた百瀬が、真剣に眉を寄せていたから、正真は首を横に振った。
「そんなんじゃないよ」
「いやー、どうかな。あの人きれいすぎるし……気をつけなよ」
バカ言わないでとテーブルの下で足を軽く蹴飛ばす。別にハートはやられてない。
でも確かに、あの日の高成の目の輝きを今も忘れられないでいる。
美しくキラキラと光っていて、たんだん甘く溶けていくような心地になった。言うことを聞かせるために、催眠術をかけていると言われたら、きっと信じたくらいだ。
「出来たー」
おもむろに百瀬がスケッチブックをこちらに向けた。
「あの……、これって俺だよね?」
グレーのブレザーを着ている自分が、やさしく微笑んでいた。
似てるとは思う。でも変に可愛いく描かれて女の子みたいで勝手に頬が膨らんだ。
「あ、あの、ごめんね、気に入らなかったかな。勝手にかいて、ゴメンね」
百瀬は青い顔をして、スケッチブックを鞄にしまっていた。
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