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 久坂七生といると、水が合う、という言葉を辰巳大輔は思い出す。  なぜかは分からない。彼と一緒にいると「気が合う」のでもなく「馬が合う」のでもなく、「水が合う」という言葉の方がしっくりするのだ。 「──あ、雨、降ってきた」  その声に触発されて、辰巳がふと窓の外を見やれば、ちょうど店のすぐ前の横断歩道を赤い傘が渡っていくところだった。  二階席から見下ろす開いた傘は、まるでぽつりぽつりと咲いた花のようで、つい目を奪われる。しかし目の前の窓に濡れた様子はなく、どうやら雨はまだ小降りのようだった。 「雨つっても小雨だろ。本当にこっちのやつはすぐ傘差すよな。俺の地元じゃ、こんなの降っているうちに入らねえよ」 「辰巳さんの地元って雨多いんでしたっけ? ていうか、それ傘持ってきてない負け惜しみでしょ」  どこか笑いを含んだような声に、辰巳は眼差しを目の前に戻した。  全国どこにでもあるハンバーガーショップの、小さな白いテーブルを挟んで向かい側に自分より年若の男が座っている。  ──久坂七生、二十七才。襟ぐりの開いた白いシャツを着て、紺色のカーディガンを羽織った姿は、本来ならかなり緩い格好のはずなのに、なぜかすっきり見えるのは彼の持つ生来の爽やかさの成せる技だ。そのくせ口を開くと、ときおり毒を吐き、下ネタでも遠慮なく笑う──そういう普通なところを、辰巳は気に入っていた。 「おまえってときどき感じ悪いよな」  頬杖をついたまま、辰巳は久坂の言いようにむっとしたように装ってみせた。もちろん久坂はそれさえお見通しで、紙カップに入ったコーヒーを傾けながら「ときどきですか」と軽く笑う。 「辰巳さんは優しいな。俺は会社では冷徹男らしいですよ」 「冷徹ってどんな勤務態度なんだよ? あー、でもおまえ、後輩とかに厳しそうだよな」 「優しくする理由ないですからね」 「……おまえ、本当にどんなふうに仕事してるんだ」  呆れた辰巳に、久坂はただ肩をすくめただけだった。  辰巳は久坂が働いているところを見たことがなかった。久坂が勤めている先がどういう会社かはなんとなく知っているが、彼の所属する法務部という部門が具体的にどういうことをするところなのかは知らない。辰巳の勤める印刷会社には法務部という独立した部署が存在しないからだ。 「おまえみたいな後輩持つの怖いよな。俺なんか無能って罵られそう」 「まあ、尊敬できる先輩とできない先輩はいますよね」 「おい、そこは〝辰巳さんは無能じゃないでしょ〟って返すところだろ!」  言えば、ハハッと声をあげて久坂は笑った。  会社も違う、年齢も違う、出身地も大学もなにもかもが違う。それでもなぜか今はこうして休日なれば顔を合わす関係になっている。  辰巳大輔が久坂七生と出会ったのは、つい一年ほど前のことだった。  場所は、そのころ話題になっていた北海道の味覚を堪能できる小洒落た居酒屋。金曜夜の七時にその店の同じテーブルにいたのは、辰巳と久坂と、辰巳の高校時代の同級生で久坂の会社の先輩であるところの木藤博隆と、見知らぬ女子が三人。要するに合コンである。  久坂は時間ぎりぎりに待ち合わせの交差点にやってきた。ウィークデイの夜七時だというのに、白のヘンリーネックのシャツに黒ジャケットを羽織った軽装でやってきた彼は、木藤を見つけると正直に顔を歪めてみせた。 「突然呼び出すの、やめてもらえませんか」 「あー悪い悪い、急きょひとり来れなくなっちゃってさ。夜七時に新宿出て来られるのっておまえぐらいしか思いつかなくて。三対三の合コンでひとり欠けるってありえないだろ?」 「家に着いた途端、街まで取って返す身にもなってください」 「どうせおまえヒマしてんだろうが。せっかくの合コンなんだから、喜べよ」  突然呼び出したくせに木藤に悪びれた様子はなかった。  どうやら久坂七生はほぼ定時で仕事が終わり、一旦自宅に帰ったところで木藤に呼び出されたようだった。合コンを突然ドタキャンしたのは、辰巳の高校時代の同級生だったものだから、なんとなく申し訳なくなり、辰巳は初めて会った久坂に「迷惑かけてごめんな」と謝った。  それが初めて交わした言葉だ。  久坂は、初対面の辰巳を見返して、あっさりと言った。 「これ完全に木藤さんの問題なんで気にしないでください。俺、久坂です」  五つも年上の先輩に対しても一歩も引かないところに、思わず辰巳は笑っていた。  久坂はどうやら木藤の性格をよく知っているようだった。イベント好きで、既婚者のくせに合コンが好きで、強引で世話好きでいい加減で、でも憎めない。  今回の合コンもほとんど木藤が一人で決めて、三十過ぎの独身男が合コンが嫌いなわけがないとばかりに、辰巳をはじめとする同級生を引きずりこんだのだ。それが嫌だったのか、本当に仕事が忙しかったのか当日になってドタキャンをした同級生の代打が、久坂だ。  事前に顔合わせだけでも、といってその居酒屋の入っているビルそばで待ち合わせた三人は、そうして女子たちの待つ店へ向かった。  そのときの合コンの内容を、辰巳はほとんど覚えていない。  合コン好き道化役の木藤はもちろん、営業職をやっている辰巳は初めて会う相手と話すことに慣れていて、どんな相手でもたいがい場を盛り上げることができた。木藤に付き合って何度も合コンをしていれば、よく出てくる話題も分かってくるから、それなりの回答も準備できる。  ただ残念ながら、辰巳は〝女子を落とす〟用に回答を準備するほど器用ではなかった。 「週末はなにしてるんですか?」  そんなありきたりの質問に辰巳はいつも「映画とかDVDとか見てるよ」と返す。そういうときの相手の反応は「誰と見に行くんですか」「ひとりで見に行くんですか」「どんなの見るんですか」あたりだ。ときどき「ふうん」だけで終わるときもあるが。 「最近だったら、ウディ・アレン監督の──」  そして最近見た映画や好きな映画の話をしても大抵は通じない。  だがその日は違った。隣に座っていた久坂が驚いたように辰巳を振り返ったのだ。 「マジで? 俺も見ましたよ、それ。なんかパリに行きたくなりませんでした?」 「うそ。見たの? 俺の周りで見たってやつ初めてだ。あ、でも、俺、ウッディ・アレンを語れるほどは見てないよ」 「俺もそんな見てないですよ。なんだかんだ言ってエンタメ大作とか見ること多いし」  うわ分かる! と辰巳が唸るように言って、目の前の女子をさしおいて盛り上がった。  辰巳は映画が好きでレンタルDVDを含め頻繁に見るが、マニアと名乗るには及ばない、と自覚している。ハリウッドもフランス映画もアジア映画も邦画も、単館系だろうが大作だろうが、関係なくそのとき見たいと思ったものしか見ないから、マニアになりきれないのだ。  そんな半端なレベルの趣味だから、合コンで話をしても盛り上がらないし、SNSなどの映画通コミュニティにもはまれない。  だから初めてだった。こんなふうに趣味の感覚が合う相手に出会うのは。  結局「今あれを見たいと思っている」「あ、俺も見たい」「じゃあ行く?」という展開になり、あとから「相手が違うだろう!」と木藤にツッコミを入れられる羽目になったのだった。  久坂との付き合いはそれからだ。  今では半月に一度の頻度で映画を一緒に見に行く仲になっている。男同士だということで遠慮もなく、気軽な関係だ。「明日、──を見に行くけど、おまえ来る?」だとか「──ってどう思います?」だとか「やっぱり──は見逃せないですよね。来週一緒に行きます?」だとか、そんな情報交換のように誘い合うから、断るのも誘うのも気楽なのだ。  今日もそうだった。吉祥寺にある映画館でしか上映していない映画を見に行こう、と上映十分前に待ち合わせして、映画を見たあとは軽い腹ごなしに、近くのハンバーガー屋に足を運んだ。  気張る必要はまったくなく、休日の過ごし方としては上々だと辰巳は思う。  ──が、頬杖をついて眺める窓の外も店内もカップル率が高く、ふと辰巳は目の前でコーヒーを飲む男を見やった。 「つーかさ、休日に男と映画って。おまえいいの、そういう時間の使い方で」 「それ、そのまま辰巳さんにも言えるでしょ」 「俺とおまえじゃあ違うだろ」  久坂は自分と違ってまだ若いし、それなりにイケメンだ。これで彼女がいないなんてもったいないなあ、と辰巳は思う。だが、そんな辰巳に対して久坂は軽く笑って見せる。 「まあ、確かに俺の方が若くてモテますけど。それ言うなら、辰巳さんの方がタイムリミットやばいでしょ」 「さらっとおまえ感じ悪いよな。つーか、やばいとか言うなよ」 「合コンとかデートとかしなくていいんですか?」 「……そういうの、つくづく面倒くさい」  うんざりした様子で辰巳が言えば、「ですよね」と久坂も同意する。結局こうやって男同士で遊んでいる方が楽だと思っているのだ、お互いに。  それを昨今では草食男子というのか、と言えば、久坂がすかさずそれを否定した。 「いや、俺は意外に肉食系ですよ。動物的です」 「動物的ってなんだよ。てか、肉食系にも見えないし」 「いくときはいきますって、がっつりと。いや、がっぷりと?」  首を傾げながら言う様はひとつも肉食系らしくなく、「それでがっぷり食いつけるのかよ」と辰巳は遠慮なく笑った。けれど笑いながら、こいつは本当にそうかもしれないな、と思う。久坂は自分とは違って、まだ恋愛できる余裕を残している。  ……自分はダメだ。その気がない。その気が起きない。  あと六カ月もすれば辰巳は三十三才になる。彼女がいない歴はもう八年に近い。  別に女性から忌避されるようなブサメンではない、と辰巳は自分で思う。百七十四センチの中肉中背で、特にスポーツはしていないがまだ腹は出ていない平均的な三十代だ。営業職だから髪は染めずに整えているし、格好も清潔感には気を遣い、コミュニケーションスキルも悪くない。  けれど彼女はいない。だが、それでいいと辰巳は思っている。  新卒で中規模の印刷会社に入り、最初は管理課にいたが営業課に引き抜かれ、一応今では営業課の中堅社員として期待されている。仕事は嫌いではないのだ。やればそれなりに成果が上がるのはやりがいがあるし、客に頼りにされ「辰巳さんじゃなきゃ困る」と言われたら気持ちがいい。  一方で、辰巳は仕事だけの人間でもなかった。一歩会社を出れば仕事を忘れ、自分の好きな趣味に没頭することができるし、ときおり会社の同僚や男友だちと飲み交わすのも好きだし、一人暮らしをしていてひとり飯を作ることも苦じゃない。  基本的に人生は順調だ。満ち足りている。──むしろそれ以上の変化は面倒なのだ。 「……そろそろ出ます? 雨、まだ降ってるな。辰巳さん、このあとなんか予定あるんですか」  久坂に言われて気づくと、ハンバーガー屋に二時間近く、長居をしていた。頼んだバーガーやポテトはおろか、Mサイズのコーヒーすらもう空いている。時間は五時近い。 「んー、別に帰って飯食って寝るだけ」 「飯食っていきます?」  そうだなあ、と考えながら、辰巳は腰をあげた。と、すぐに久坂がさりげなくトレイを重ね、ゴミをまとめている。こういうところがモテ要素なんだろうな、と辰巳は思う。 「ちょっと歩きますけど、近くに餃子のうまい店があるんですよ。普通の餃子なんですけど、羽根がパリパリでうまいんですよ。最近帰り道に見つけて、地味だけど意外に人気で」  なぜだろう、餃子は男心をくすぐる。久坂はこの近くに住んでいるのだ。そんな近所で人気の店というのが、またそそられた。 「そんなふうに言われたら、もう食べるしかないだろ」 「辰巳さんは気にしないと思うけど、店は結構汚いですよ。女子は誘えない感じの」 「俺がそんなの気にすると思うか? あー、でも本当こういうとき男同士って楽だよな」  つい実感を込めて辰巳はそう言っていた。  男同士は楽だ。映画のあとの休憩がマックでも文句を言わないし、割り勘で当たり前だし、汚い店だろうが猥雑な店だろうが気を遣う必要がほとんどない。  辰巳の口調で言葉以上のものが伝わったのか、久坂がゴミを片してしまいながら苦笑を洩らす。 「そんなこと言うとまた木藤さんにダメ出しされますよ、彼女つくる気ないのか!って」 「……あいつ、うぜえんだよ」  しかし久坂の言うことはもっともで、どういう使命感を抱いているのか、それとも既婚者の優越なのか、木藤は辰巳の恋愛にいちいち口を出すのだ。誰かと食事に行けば「どうだった?」、休みにひとりで映画に行ったと言えば「女誘えよ」、久坂と映画に行ったと言えば「女誘えよ」。 「マジで放っとけっというの。本気でそういうの面倒」  決して強がりではなく、辰巳はそう吐き捨てた。  今さら一から恋愛をしろ、なんてまず無理なのだ。考えるだけで辰巳はうんざりする。デートへの誘い、デートの計画、付き合うためのステップ、セックスまでの道のり、それから先の将来だのなんだの、そういうことを考える自体が億劫なのだ。 「木藤さん、ときどき俺にもそうですからね、分かりますよ」  そうやって久坂と一緒になって木藤の文句を言いながら店先まで降りると、二階の窓から眺めているよりも雨は激しく降っていて、思わず庇の下で足を止めた。  天気予報では晴れときどき雨で、傘を用意していない人も多かったのか、店の目の前の横断歩道の向こうに相合傘をしているカップルの姿が見えた。 「────」  ……自分はいつからこうなってしまったのだろう。  不意に辰巳はそんなことを思った。  女性が嫌いなわけではないのに、性欲だってないわけでもないのに、そういうことが本気で面倒になっている。心を強く動かされるようなことなんて、自分には必要ない気がしている。 「辰巳さん? 俺、傘持ってますよ」 「……ああ」  折りたたみ傘を取り出しながら、軒先に立つ辰巳の隣に久坂が並んできて、その少しだけ自分より高い身長の彼を見やり、なんとなくほっとする気がして辰巳は息を吐いた。  それに気づいた久坂が顔をしかめる。 「なんですか、相合傘が嫌だっていうんですか」  いや、と辰巳はかぶりを振った。  恋愛できない仲間がいて安心した、なんて正直に言うのは、さすがに悪い気がする。それでもこうして休日に相手してくれる気軽な存在がいることは、本当にありがたく思っていて。 「俺、おまえがいて良かったわ」 「……傘ひとつで、なに気持ち悪いこと言ってるんですか」  そういう意味とは違ったが、そういうことにしておいて、とりあえず行くか、と辰巳は久坂を促した。久坂の持っている傘は折りたたみで小さく、大の大人が二人で使うにはお飾り程度だったが、「狭ぇよ」とか「じゃあ持ってくださいよ!」とか小学生みたいに騒ぎながら、軒先を出て歩き出す。  社会人になってから新しくできた、気の合う友人。彼と一緒にいると居心地がよくて、いつも自然体でいられる。……そう、まるで水に溶け込むように。  もし彼に彼女ができたら、自分はきっと寂しく思うだろう、と辰巳は思う。 「……久坂、おまえさ、彼女できたら言えよ」 「は? いきなりなんですか」 「いや。俺、そういうの鈍感だから、そういうので迷惑かけるの嫌だから」 「できたら言いますよ。むしろ自慢げに」 「本当におまえって性格悪いよな」  いつものように遠慮なく、打てば響く気安い会話に笑いながら、辰巳はさりげなくうつむく。  しぶきのような細い雨、濡れた路面、それを蹴る横に並んだ二人のスニーカー。  ……いつか彼も彼女ができて、みんなと同じように辰巳を置いて先へ行ってしまうだろう。  だけど仕方がない。それは彼らを追いかけない自分のせいなのだから。恋愛をする気がない自分のせいなのだから。 「そういう辰巳さんこそ、なんかあったら言ってくださいよ」  ふと肩が触れるほど近くで歩く男がそう言った。 「ねえよ、俺には」 「あるかもしれないじゃないですか」 「万が一にも?」 「そうですよ。言ってくださいよ。──俺、邪魔しますから」  ちょうどすぐ先の信号が赤で、足を止めて辰巳は思わず顔をあげていた。  紺色の傘の影から見下ろす眼差しが一瞬本気に見えて、辰巳が瞬けば、すぐにいつものように久坂は悪戯っぽく笑ってみせた。 「俺より先に幸せになるなんて許しませんから」
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