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誰もいなくなった寄宿舎は静かで、ユアンはそっと息を吐く。
八月も半ばになろうかという時期に残っている理由は、つい先だってまでひどい風邪を引いていたからだ。
ようやく起きられるようになったころには、補習組の生徒も姿を消しており、こうして誰もいない寮の廊下を歩いている。
医者からは、もう平気だろうと言われたけれど、帰省するつもりはない。家には一歳になろうかという幼い弟がいるからだ。病み上がりの身体で、乳幼児がいる家に帰るのはよくないのではないかと告げると頷かれ、スクールに留まることを許可された。
ホームシックになるような年齢でもない。もう十三歳なのだ。
(……だから、べつに寂しくなんてないんだ)
口を尖らせて、ユアンは庭へ向かった。
スクールには五つの寮が建っている。男子寮と女子寮が二つずつと、教師たちが暮らす寮。
ユアンが暮らすファントム寮の傍には庭園があり、寮生たちが手入れをすることになっている。
とはいえ、やることはそう多くない。本格的な剪定作業は業者が入るし、スプリンクラーで散水もしている。届きにくい隅のほうに水をやる程度だ。
一歩外へ出ると、太陽に照らされた。空の青さと、真っ白な入道雲のコントラストが眩しくて、目を細める。
木々が作る影の部分を選んで歩きながら、庭の隅にある倉庫へ向かった。ホースが繋がった蛇口をひねり、ノズルを切り替えながら水を撒く。
時折、頭上に向けて霧状の水を放ち、けぶるような雨が降るさまを楽しむ。
見つかると叱られるけれど、今はユアンだけ。この程度の水遊びぐらい、勘弁してもらおう。
ノズルを変え、細く絞った水を庭の隅へ向けて放った時、そこから白い何かが覗いた。
庭園の奥、木立の間から現れたのは人影だ。ユアンは慌ててホースを下へ向ける。視線の先にいる人物は、木陰から出てくると笑みを浮かべた。
「足元、水びたしになっちゃうよ?」
届いた声に、蛇口をまわして水を止めた。
そこからひとつ、ゆっくりと息を吐き出して、おそるおそる振り返るとその人はまだ立っていて、こちらを見つめている。
最高学年の寮長よりも年上に見える女性。袖のない真っ白なワンピースは、まるで雲がそのまま地上へ降りてきたようだ。その白さを際立たせているのは、肩を流れる艶やかで真っ黒な髪。
(――誰だろう、この人)
ごくりと息を呑む。教師の顔をすべて把握しているわけではないけれど、彼女はとても若そうに見える。長い髪を束ねもせずそのまま流しているところは、およそ教師らしくない。
規律の厳しいスクールでは、女子はいつもきちんと髪を結うことを推奨されている。女性教師らはその模範となるべく、身なりを整えているのだ。
後ずさっていた足がぬかるみで滑り、尻もちをついてしまう。
「大丈夫? 立てるかなあ?」
「平気だっ」
まるで幼子に対するような声をかけられ、ついかっとなって言い返した。差し出された手を取らずに立ち上がると、向かい合う。
背はあまり高くない。十三歳のユアンよりはずっと高いけれど、上級生の女子よりは低いのではないだろうか。
「誰ですか」
「そうねえ。東洋の魔女っていうのは、どうかな?」
笑って小首を傾げる。やっぱり先生を呼びに行こうとユアンが決めた時、背後から足音がして声がかけられた。
「どうした、大丈夫か?」
「先生、あの」
教師のほうに顔を向け、そうして女性のことを報告しようと庭へ向き直って、言葉を止める。
いない。
あの女性が消えている。
「病みあがりなんだから、無理はしないようにな」
「えっと……、はい」
呆然としたユアンの頭をぽんと叩き、教師は戻っていく。
もう一度、確かめるように見渡してみたけれど、あの白いワンピースはどこにもなくて。
ただ、眩しいだけの光が、庭の緑を輝かせていた。
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