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森の奥深く、ログハウスの生活は3年間続いた。 彼女は2ヶ月に一度200ccの輸血をしてきたが、若さを取り戻すことができなくなって、ベッドに伏せるようになった。 僕の血液を毎月400cc輸血すれば回復するかもしれないが、それでは僕が貧血で倒れて亡くなるかもしれない。僕はベッドに横たわった彼女に言った。 「あの事件からずいぶん経ちました。貴方を覚えている人はいないでしょう。市内の病院に入院しましょう。貴方に元気になってほしい」 「わかったわ、正さん。貴方の愛を忘れない。あなたの優しさを忘れない。私は幸せだった。貴方は若い。だから私が死んだら、私のことは忘れてね」 消え入るような声で絞り出すように言った。 「そんな事言わないでください。きっと元気になリますよ。美子さん、僕も貴女に会えて良かった。僕は幸せ者です」 彼女の瞳から涙が流れた。僕は彼女の涙を指で受け止めた。彼女は頷いて応えた。 「僕たちはずっと一緒ですよ」 僕は彼女に囁いた。 僕は彼女を車に乗せて市内の総合病院に入院させた。僕と車椅子に座った彼女は診察室で医師から説明を受けた。 「青木美子さんの元ご主人はドクターだったのですね。当時のご主人のカルテを取り寄せました。貴方も同じ病気にかかっているようです。造血機能が衰え老化するとても珍しい病気です。まだ治療法は見つかっていませんが、点滴と造血幹細胞治療を試して見ましょう。まだ、研究中ではありますが、成功例も報告されていますから。改善する可能性はありますよ」 「ありがとうございます」 僕たちは医者に感謝した。 彼女の治療が始まった。僕は3年ぶりに市内に住む両親に会いに行った。電話ではり、連絡していたが、直接会って交際している女性がいることを報告したかった。両親は深く詮索しなかった。好きな人ができて良かったと両親が言ってくれた。僕は泊まらず、病院に引き返した。 病室の扉を開けた。 「御両親はお元気でしたか?」 彼女はベッドを少し起こした姿勢で目を開けて言った。腕にはチューブが繋がれ、点滴が行われていた。 「両親は元気で安心しました。今交際している女性がいると報告しました。両親は喜んでくれましたよ。とても美しいですよ」 彼女は輸血と点滴で美しい姿を取り戻していた。僕はベッドの側に座り込んで囁くように言った。涙が出てきた。 「元気になったらログハウスに行きたいわ」 彼女も瞳を涙でうるませた。 「青山のマンションに帰ってもいいんですよ」 「私のせいで吉田さんを救えなかった。帰ることはできないわ。それに、私達の思い出はログハウスにあるから」 「そうですね」 僕は幸せが続くような気がしていた。 2ヶ月後、彼女の様態は急変した。輸血をしても再び老化が始まってしまった。 僕は医師に診察室に呼ばれた。 「先生、彼女の病気また進行が始まったのですね」 「輸血や、最新の造血幹細胞治療も効果はなかったようです。残念ですが、手の施しようがありません」 「長くないと?」 「一週間持つか……」 僕はいつかこの質問する日が来るのが怖かった。 「彼女はログハウスに帰ることを希望していました。今、移送するのは無理でしょうか?」 「わかりました。移送は非常に危険ですが、私と看護婦が同行しましょう。青木さんの希望を叶えてあげましょう」 僕たちは救急車で2時間かけてログハウスに戻った。 医師と看護婦と僕で、彼女をベットに寝かせ、看護婦が輸血と点滴を行った。 「青木美子さん、気分はどうですか」 医師が彼女の心拍を測定してから言った。 「いいです。帰れて感謝しています。少し疲れたみたいです。少し寝させてください」 彼女はそう言って目を閉じた。 彼女の額、口元、首筋、胸元は皺に覆われていたが、しだいに皺はなくなりはりのある肌に戻った。 「先生、輸血の効果があったのですね?」 「奇跡が起きた……のですね」 医師と看護部は美しくなった彼女に驚いた。 僕は、奇跡が起きたことに感謝した。 僕は彼女の枕元で彼女を見守った。医師も様態の急変の可能性があるため待機してくれた。 その晩、 彼女は少し眉間に皺を寄せた。苦しいのだと思った。 彼女は生と死の狭間で3年間戦った。楽にしてあげたいと思いながら、同時に奇跡が起きて、また二人の生活が戻ることを夢想した。 彼女はゆっくりと目を開けた。 「正さん、ありがとう。貴方と出会えて良かった。とても幸せでした」 彼女の声は途切れ途切れで小さかった。 僕は彼女の手を握りりしめて、彼女の顔に耳を近づけて、必死に聞き漏らすまいとした。  彼女も握り返してくれたがその力は弱弱しくなった。 「僕こそ、美子さんに出会えてよかった」 僕は彼女の意識が遠のくのを引き止め用とした。 「私が死んだら忘れてね」  声が聞き取れなくなった。僕はもう一度、彼女の手を握りしめたが、握り返してくることはなかった。 「忘れません。いつもあなたと一緒ですよ」   彼女は静かに僕の手を握りながら息を引取った。 医師は彼女の脈を確認して、彼女が亡くなったことを告げた。 僕はその言葉を聞いて、彼女に口づけをした。 涙が溢れ止まらなかった。 彼女の葬儀をするため、彼女の手帳のアドレス帳を見て、ゲストハウスでお世話になった、弁護士に連絡した。 彼女の両親はすでに他界していて兄弟もいないということだった。 僕は僕の両親と弁護士と4人で彼女の葬儀を行った。  後日、弁護士がログハウスを訪ね、彼女の遺言書を届けに来た。  彼女はログハウスに来てから、弁護士に遺言書を託していたのだという。 「青木美子さんは貴方に青山のマンションと、現金を残されました」 「僕は、受け取れません。僕は彼女の遺産が目当てで近づいたのではないのですから。彼女は不治の病でした。治療をしていただいた先生を通して、病気の治療に役立つよう寄付させてください」 「本当に、それでいいのですか。せめて、青山のマンションの1室だけでも」 「いえ、東京に戻るつもりはありません」 「そうですか。もし彼女の遺産が治療の研究に使われたら、美子さんも喜んでくれるかもしれませんね」 「ただ、一つだけお願いがあるのですが。彼女をログハウスの近くに埋葬したいのです。私有地に埋葬するのは法律で禁止されているかのしれないので」 「確かに、ログハウスの庭に埋葬するのは無理かもしれませんが、その件は任せてください」  弁護士は「お二人は本当に幸せだったのですね」と言って帰って行った。 二人で過ごした3年間は、濃密で、時には耽美で、その記憶の全てが輝いている。 だから僕がログハウスを出ることはなかった。 テレワークをしながら、時々、両親に会いに行った。 独りになったが孤独ではなかった。 二人の思い出は、彼女が亡くなって年を重ねるほど鮮明になった。記憶の中の彼女がどんどん成長していくようだった。 朝食でテーブルに座ると、台所に立った彼女の姿が浮かんできた。 テレビを見ながら長椅子を見ると彼女が横たわっている姿が浮かんできた。 窓から庭を覗くと花に水を上げる彼女の姿が浮かんできた。 不鮮明になるはずの記憶は、僕の創作が重なって新しい記憶を作り出しているのかも知れない。 耳を済ますと、彼女の声が聞こえてくるような気がした。 目を閉じると、瞼の裏に彼女の笑顔が浮かんできた。 僕は幸せ者だ。  彼女の墓は、ログハウスから車で20分ほどのところにある丘のある公園墓地にある。  彼女の墓は丘の高台に設置されたので、ログハウスのある森を眺めることができた。  僕は毎週末、弁当を作ると、彼女の墓を訪ねた。墓石の傍らに座って、彼女に話しかけた。 「今日も晴天ですよ。貴方には今日も森の中のログハウスが見えているのでしょう」 永遠の愛を誓いあった人たちでも、愛情が色あせていくこともある。 たとえ 色あせない愛情でも、いつか死が二人を引き裂いてしまう。残された者は、その死を忘れない、彼女が生きたことを思い出すことが僕の生きる意味なのかもしれないと思った。 「 青木美子さん。  貴方は生死の淵で懸命に戦い、生き抜いたことを僕は見届けましたよ。 僕は元気ですから安心してください。また来ますから待っていてください。貴方も安らかに」  僕は彼女の墓石に合掌した。 了
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