加害者家族健全育成法

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『加害者家族健全育成法。通称、カケイ法。  それは、とある一人の犯罪被害者の言葉から生まれた新法である。  彼は、一人の少年だった。どこにでもいるありふれた少年で、しかし、あるとき彼の兄が犯罪を犯した。殺人だった。  彼の兄は逮捕され、数刻もしないうちに少年の家へと新聞記者、テレビ取材班らが集まった。  毎日やむことの無いインターホン。扉を叩く音にかぶさって聞こえる心のない罵声。  度重なるストレスによる家庭崩壊は、ひどくあっけなく結末を迎えることとなる。  少年の母親は心を壊して入院した。少年に暴力を働いていた父親は、新しい女性を作って家を去った。  まだ幼い少年は、祖父の下へ預けられる。  心優しい老夫婦に育てられ、少年は健やかに成長していくが、小学生高学年になったある日、事件のことがクラスに広まる。  少年は、耐えた。ただ息を殺して、皆が自分の元から去るのを待ち続けた。  体に数多の傷を負い、心をすり減らし、だが耐えきれなくなった少年は、主要国首脳会議開催予定地の近くのビルで身投げをした。  ウェブ上に遺書動画を残し、少しでも自分の思いが届くようにと。  これを機に世界規模の運動が行われ、加害者家族健全育成法は成立された。  カケイ法は、重大犯罪を犯した加害者の家族に成人未満の子供がいる場合、加害者と縁を切って加害者もしくはその家族が別姓を名乗ることを可能とし、またカケイ法適用家庭に対する不当な誹謗中傷を犯罪行為と断定した。  カケイ法の生みの親ともいわれる少年の言葉を借り、カケイ法は「加害者家族もまた、事件の被害者だ。そんな彼らが加害者である家族に、自分たちの生活を狂わせたと恨むことなく、少しでも普通の生活を送ってほしい」ということを指針とする。』  目の前に並ぶ言葉を、佐竹裕樹は働かない頭を用いて淡々と読み進めていた。  隣で泣き崩れる女性の声をBGMに、裕樹は呆然と書類を眺め、読み終えたそれを机の上に放ってから顔を上げた。 「それで、お決まりになられましたかな?まだ気持ちの整理がついていないこととは思いますが、あなた方のより良い生活を守るため、ぜひ早急にご決断ください」  目の前のソファーに腰を下ろす顔をいかつい男性が眉間にしわを寄せながら告げた。  その顔をしばし眺めた裕樹は、それからふぅと息を吐き、ソファーに体重を預けながら天井へと視線をやった。  まだ、女性のすすり泣く声が響いていた。  いつもの日常が崩壊したのは、突然届いた一本の電話だった。 「あの人が逮捕された?」  居間のソファーでくつろいでいた裕樹は、電話に出た母の突拍子もないセリフに耳を疑った。裕樹の視線の先で数度短い言葉を交わした母は、電話を片手に、青ざめた顔で振り返って告げた。ギィと床がきしむ音がした。血の気が引いた青白い顔は、彼女の黒いワンピースも相まって、死神のように裕樹のすべてを刈り取りにくるようだった。 「裕樹……お父さんが、逮捕されたって」 「は?……いや、逮捕ってなに?父さんが?ホント?……何があったの?」  口から出る疑問の数々に、裕樹の母は顔をしかめながらゆっくりと息をすい、続けた。 「人を、殺した、って。お父さんの同僚の人が亡くなったって前話があったでしょ?その人が毒殺されてて、実はお父さんがその犯人だったって……」 「え?確かに会社の人が亡くなったって話は聞いたけど、でも、病気じゃ……」  立ち尽くすことしかできない裕樹に、母は震える足を動かし、裕樹の数歩手前まで移動して、そこで崩れ落ちた。 「あの人、気弱で人殺しなんてできる人じゃないの。だからきっと何かの間違いで……でも…………ねぇ裕、わたし、どうしたらっ」  足に縋り付いて慟哭する母に、しかし裕樹は何をすることも、する余裕もなかった。裕樹もまた母の言葉を受け止めきれずに思考がフリーズしていた。  先ほどまで香っていた紅茶の香りが、脳裏を焼くように駆け巡る。 (父が、殺人、人を殺して捕まった……捕まった?ああ、警察にいるのか、俺たちはどうすれば、いや、そもそもあの父が殺人なんて、いや、でも…………)  ピンポーン。  ビクッと、裕樹と母が同時に肩を震わせた。停止していた脳が勢いよく動き始め、そして裕樹は母と顔を見合わせ、青ざめた。 (まさか、もう記者が来たのかっ)  すくんだ足を、意思を振り絞って前へ進めようとして、母が足にしがみついていることを思い出した。  普段の落ち着きなど見る影もない母の姿を目にして、裕樹は幾分か気持ちを落ち着かせることに成功し、インターホンの前に立ち 「ヒイッ」  今度こそ悲鳴を上げて床に尻もちをついた。 「はい」 「あ、わたくし法務省人権擁護局加害者家族健全教育科、遠野彰と申します」  裕樹に追いついた母が出た相手は、二人が予想していなかった人物だった。 「今回の件で非常に困惑されているとは思いますが、あなた方が今後も普通に生活していく上で、加害者家族健全育成法、カケイ法の適用をぜひとも承認いただきたいのです」  遠野彰と名乗る男性からこれが一番取っ掛かりやすいと手渡された、やけに陽気にデザインされたカケイ法のパンフレット。机に投げ出されたそれを眺めながら、裕樹は未だ打ちひしがれる母へと視線を向け、口を開く。 「それで、母さん。……どうする?」 「わからないわ。わからない。こんな、いきなり今後どうしていくのかなんて、どうやってきめたらいいのか分からないわ」 「俺だって分からないっていうのに……。でも、この法律で今までの生活が続くなら、やればいいんじゃないか?」 「そう……ね。今までの生活が、続けられるのなら……」 「あなた方の今後に大きく左右する話に口を挟むのは恐縮ですが、こう考えてみてはいかがでしょうか。カケイ法を受け入れることによって、考える時間を得られる、と。言いづらいのですが、このままカケイ法を受け入れずにいれば、あなた方は殺人犯の家族という世間の誹謗中傷の対象となる可能性が高いです。ネットに個人情報がさらされ、家に押しかけてくる方が現れるかもしれません。お子さんが学校でいじめにあうかもしれません。ですから一時的にでもカケイ法を受け入れて、お父様の件と正面から向き合う時間を手に入れるのをお勧めします」 「はぁ」  なんとも気の抜けた返事を返した裕樹は、虚空を見つめる母を眺め、それから男に向き直ってうなずいた。 「適応、でお願いします」  分かりました、手続きはこちらで済ませておきますという男の言葉を聞き流し、裕樹はソファーへと沈み込んだ。 (ああ、わけがわからないな……)  ガチャンという玄関を扉が閉じる音と同時に、裕樹は瞼を下した。
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