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 母の言う通りだった。思い描いていた生活と現実の生活は、あまりにもかけ離れている。  脱ぎ捨てられた服は、ソファーの背凭れに置きっぱなし。トイレの照明は点けっぱなし。鼾と歯ぎしりの破壊力は半端じゃない。カレーは甘口しか食べない。トイレットペーパーはシングルよりダブル派という拘り。入籍する前に同棲を勧めていた母に『どうせ結婚するんだから意味ないでしょ?』と胸を張って答えたが、事前に知っていればもう少し対策が出来たのではと後悔した。  会社を辞めて直人と一緒に大阪に住まいを移し、専業主婦となった私に試練が立ち塞がった。実際に生活を共にしないと、見えてこない事ってあるものだと戸惑いの連続。初めの数日は様子を見ていたけれど、私の堪忍袋の緒が切れる寸前で、それとなく直人に話すも、直人は譲らなかった。価値観の共有という盾を使いながら私の攻撃ならぬ口撃を防いでいった。  結局は私が折れる形になったものの、亭主関白よりもましかと自分に言い聞かせていた。新天地の証券会社に転職して気苦労を重ねているにも関わらず、家に帰ってきて愚痴の一つもこぼさない直人を窘めるのは気が引ける。  引っ越して三ヶ月が経った頃の日曜日。直人は昼間から決まってリビングに置いてあるソファーに足を伸ばして寝転がりながら、テレビを観ている。せっかく天気が良いからレンタカーでも借りてドライブを楽しみたい気持ちがあるものの、無理をして疲れている体に鞭を打って欲しくない気持ちもある。  駅前に最近出来たスイーツ店が以前から気になっていた。某テレビ番組のコンテストでチャンピオンを獲ったパティシエがプロデュースをした店だとSNSで話題になっている。特にモンブランには目がない私の衝動をこれ以上抑える事はなかなか大変。一人でも行ってやる。  そんな事を考え出した時に、インターフォンが鳴った。鳴った事に気付いている素振りを見せつつも、ソファーから体を起こしそうにない直人を尻目に玄関に向かった。ドアスコープの奥には宅配業者の姿が映り出されている。  玄関扉を開くと、長細い段ボール箱を持ちにくそうに業者が、しかめっ面を浮かべながら届けてきた。段ボール箱に貼られている伝票を確認すると、送り主は藤原からだった。藤原の名前を見た瞬間、背筋に緊張が走った。心当たりは、あの手紙。藤原に送った、あの手紙を送ってから随分時間は経っているのに。 「……何、それ?」  私の右肩から直人が顔を覗かせて、段ボール箱をまじまじと見ている。一メートルもない大きさの箱。 「藤原さんからみたい……何だろう?」  伝票にサインをして、業者が帰っていくと直人が段ボール箱を軽々と持って、リビングに運んでいく。その後ろを歩きながら藤原が何を送ってきたのか、気が気でなかった。直人が鋏を手に持って段ボール箱の四隅の封を開けていくと、芳しい香りが漂ってきた。 「……綺麗」  胡蝶蘭、デンファレ、かすみ草とピンクのガーベラが彩られた花鉢だった。恐らく、私達の結婚を祝福して送ってくれたに違いない。花言葉はいずれも、結婚を祝福するものだった。 「藤原さんらしくないな。なんか、こういうのを送ってくれるイメージなかったから」  直人が頭を掻きながら、苦笑いを浮かべていた。私も直人に同感だった。今の藤原にはそぐわない様な気がする。不器用で他人に関心を持たないイメージは拭い切れていなかった。 「……これって?」  白いガーベラに挟まっているものを手に取ると、藤原の名前が書かれた名刺だった。代表取締役に藤原の名前が書かれている。 「えっ!? 藤原さん、会社辞めて独立したって事? どうして? あんな大会社の社長やっていたのに」  きっかけは私の手紙っていうのは、思い過ごしだろうか。いずれにしろ、藤原が何かしらの結論を見出して、今を生きている事を嬉しく思う。 「この名刺、ガーベラに挟まっていた」 「うん? あぁ、そうだな」 「白のガーベラの花言葉、知っている?」  首を振る直人に「希望よ? 藤原さんは、独立して新しい一歩を踏み出したって事じゃない?」と笑みを溢しながら答えた。すると直人も何か得心を得たように満足気に笑みを浮かべた。 「……なぁ?」 「うん?」  俯きながら照れ臭そうにしている直人の顔が好きだった。 「散歩、行かないか?」 「……どうしたの? 気の迷い?」  私のツッコミに赤面している。私の照れには気付いていない様子だった。 「行くのか、行かないのか、どうなんだよ?」 「行くわよ。じゃあ、私仕度するね」  大阪に引っ越しをしてから直人の休日は、自宅で過ごす事が増えていた。それだけに直人からの誘いは嬉しかった。いつもよりメイクは濃い目に施す。久しぶりのデートだった。  仕度を終えると、直人と一緒に玄関を出た。マンションのエントランスを抜けて、駅前に向かって歩き出すと、直人が私の右手を握ってきた。ふと直人の顔を見上げても、立ち並ぶ商店に目を向けて、視線を合わせようとする素振りがない。直人の手から伝わる温もりを感じ取った私は自然と笑みを溢し、直人の手を強く握り返した。  雲間から差し込む陽光が私達を照らし始めた。私達の新婚生活に新しい一歩が踏み出せたような気がした。                                   〈了〉
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