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どこかで花が咲いてくれと祈るばかりだった。
焦げたたんぱく質のにおい。焼けちぎれた髪の毛。服はもはや用をなしてない。なにより、血が。
ハル、と母がわたしの名前を呼んだ。布の手袋を外して、その女性の頬に触れる。わたしの皮膚の中に眠る毒を、女性の皮膚に流し込む。深い眠りを呼び込み、あらゆる感覚を麻痺させる、薬に似た毒だ。
――こういうとき、どうして世界は遠くになってしまって、地面はふらふらするのだろう。言葉にしたら誰かが答えてくれるだろうけど、いつまで経ってもそれは口から出てこなかった。
「……おかあさん」
うつろな瞳にささやく。きっと、死にゆく人が呼ばれたかった名前で。
「おかあさん。大丈夫よ。目をつむっててね」
ひゅー……、と、女性の喉から細く吐息がこぼれる。ごぽごぽと喉の奥で血が唾液と胃液と混ぜられる音がした。
「ええ。そうね。でも、大丈夫よ。わたしたちが来たから。あなたはおかあさんになるんだから。なれますとも。だからいまは、眠っててね」
柔らかい焦げ茶の、大きな瞳がゆらゆら揺れていた。わたしはそれをしっかり記憶する。母親の瞳の色を語れるのは、きっとわたしだけになってしまうだろうから。
わたしの母親が、特殊な器具と手技を持って、女性の腹を割る。同時に魔法の詠唱が始まる。赤ん坊の弱った心肺を助ける呪文だった。新鮮な血臭が、焼けた肉の臭いをかき分ける。
遠くで山が焼けている。けが人のうめき声が充満していて、その間を白い服を汚した人間が駆けずり回る。夕焼けがすっかり夜に追いやられた頃に、ひとつ、産声があがった。
「ハル」
「はい」
「あなたが、この子たちの面倒をみなさい。馬車に戻ってていいわ」
返事を待たずに母は立ち去っていく。たった一人にかまけてられない、のは、充分に分かっている。わたしは黙って、女性の顔に布を被せた。
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