ひと夏の思い出

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 晩夏だった。穏やかな風が吹いていた。  若い稲穂が揺れている。少女があぜ道の草を踏みながら駆けてくる。「もうこんなに大きくなったんだ」、そう思って、少女の姿を眩しそうに見つめた。少女の後ろから、歳の小さな少年が追いかけてくる。その手には捕虫網が握られていた。  「ねえ。お姉ちゃん。トンボ捕って!」  「自分で捕りなさいよ。男はね、何でも自分でするの」  「いやだよ。姉ちゃん捕ってよ」  田んぼから、その向こうの広野にかけて、たくさんのウスバキトンボが飛んでいる。低いところには、ナツアカネがとまったり舞ったりしていた。あぜ道のところどころに背を高く伸ばすヨモギは無数の小さな白い花をつけている。  弟は、ついに諦めて自分でトンボを追い始めた。ところがなかなか捕まえられない。弟が近づく少し前に気配に気づくのか、つうと離れて逃げて行ってしまう。  散々足を泥だらけにして頑張ったけれど、とうとう捕まえられなかった。  少女は痺れを切らして、「網、貸しなさい」と言い、弟から捕虫網を取り上げた。網を手元に引いた少女は、姿勢を低くしたままぴたりと静止する。弟は膝をあぜにつき状況を見守っている。  一瞬、少女が網を勢いよく遠くへと突き出し、くるんと先を返すと、あぜの上に伏せ置いた。「あ! すごいすごい!」弟は大喜びだ。  「お姉ちゃんって、剣士みたいやね」…………  遠くにのっそりと青く立ちそびえる南アルプスの山々が、午後の陽を浴びて笑っていた。 .
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