最終話 その花の名前は

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 新入生のオリエンテーションが終わる頃、ようやくもう一人の秘書が決定した。  選ばれたのは胡桃坂(くるみざか)真琴(まこと)。今年入ったばかりの男性社員だ。  俊介も色々迷ったが、真琴は意欲もあり、独学だが経営に関する知識がかなりあった。  かと言ってガツガツ前に出るタイプではなく、秘書としての適性としては中の上。今後期待できそうだということで彼を採用した。  本社の社員の中からも応募はあったが、新入社員から採用した方が今後問題が起きた時に対処しやすい。間を取り持つのは大変だが、俊介は満足していたし、聖と本堂も納得していた。 「よし、じゃあ明日は胡桃坂君の初勤務の日だから歓迎会でもする?」  胡桃坂が秘書として勤務する前日。聖が楽しげに提案した。 「ああ、じゃあ俺から胡桃坂に聞いておくよ」 「よろしくね。あ、そうだ。ついでに歓迎用の花束を────」  聖は言いかけてあっと口を噤んだ。俊介は、その先の言葉が分かった。 「そうだな。俺が買ってくるよ」  俊介がこともな気に答えると、聖はお願いね、と笑顔を浮かべた。  俊介はなんだか申し訳なかった。いまだに聖は気を遣っている。だが、それもそうだろう。二年前、あんなことがあったのだから────。  俊介はその日、業務を終えた後自宅へ帰らず街を歩いた。  街は暖かい。春だからか、人々の表情も穏やかだ。俊介は歩いて会社から少し離れた花屋へ立ち寄った。  花屋の店頭には春らしい桃色や黄色の花が並んでいた。菜の花や桜もある。あれから、多少勉強してオーソドックスな花の名前ぐらいは覚えた。 「お客様、なにかお探しですか?」  エプロンを着た店員が俊介に声をかけた。俊介はその店員を、一瞬別の人物と見間違えた。  ────俊介さん。  何を考えているのだろう。もう彼女はいないというのに。 「お客様?」 「え、ああ────すみません。歓迎会で使う花束をお願いしたいのですが」 「承知しました。お色目とご予算などはお決まりですか?」 「色目は華やかな感じで、予算は四千円ぐらいでお願いします。明日取りに来るので、夕方五時ごろ用意してもらえますか?」 「かしこまりました。ではこちらにお客様のお名前とご連絡先を────」  俊介は店員が受注用紙を用意している間、店頭の花に視線を巡らせた。  店頭は春の花でいっぱいだが、あの花はないのだろうか。あれは春の花だったはずだ。そんなことを考えていた。 「あの……アヤメは、いつ頃出回りますか」 「アヤメですか? そうですね……毎年いつも四月の終わりから五月上旬ぐらいに入ってくると思いますよ」 「そうですか……」  ということはまだもう少し先だ。アヤメは春に咲く花────彼女がそう言っていた。不思議と、ここに来ると彼女に接客されたこともないのに彼女のことを思い出す。  彼女もその花を見るのだろうか。その花を見たら、自分のことを思い出してくれるだろうか。 「プレゼントですか?」  店員はにこやかに尋ねた。 「いえ……アヤメが好きな人がいるんです」 「アヤメの花言葉が確か……なんだっかしら、申し訳ありません。ど忘れしてしまいました」  店員は照れたように笑った。 「いえ、いいですよ。また今度調べてみます」 「アヤメは春を運ぶ幸せの花ですからね。プレゼントされたらきっと喜ばれると思います」  春を運ぶ幸せの花、か────。確かにそうかもしれない。  彼女は自分にとって、幸福そのものだった。日常のさりげないことも幸福に変えてくれる。あれから二年経った今でも、彼女との思い出は自分の心を満たしていた。  花束の予約を終えた俊介はぶらりと街を歩いた。あれから、用事がなくても外へ出るようになった。休日も家に篭っていることより外に出る機会が増えた。  特に何もせず、買い物をするわけでも食事するわけでもなく。ただあてもなく街を歩いた。  この街のどこかに彼女が暮らしている。どこかで彼女が働いている。歩いていればいつかは会えるかもしれない────そんな期待を抱いて。  彼女からは一度も連絡はない。自分も、一度も会いに行っていない。  もしかしたら、彼女はとっくに他の男性と結ばれて幸せになっているかもしれない。自分のことなど忘れて、幸せに暮らしているかもしれない。  それでも、彼女に一目会いたかった。  俊介はスマホを取り出し、インターネットの検索画面を出した。検索欄に「アヤメ」、「花言葉」と打ち込む。程なくして、検索結果が画面に現れた。  そこに書かれた言葉を見て、俊介は温かい気持ちになった。  アヤメの花言葉は「希望」、「良い便り」。単純な言葉でも彼女を思い出せる。自分にとって彼女は、その言葉の意味そのものなのだから。
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