プロローグ:瑠璃色の春

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プロローグ:瑠璃色の春

「ねえ、水明。これから一緒に出かけない?」  ある日のこと。夏織がどこかソワソワした様子で、俺を誘った。 「行かない」  しかし俺は、当たり前のようにそれを断った。 『幽世の冬は明けない』  (くだん)の予言から始まった、一連の騒動を忘れたわけではなかったからだ。  かの事件の裏には、恐らく人間の祓い屋が関わっている。なにが目的だったのか想像もつかないが、決して友好的な意図があったとは思えない。  それに――あの騒動の原因は、俺なのかも知れないとも思うのだ。  俺は元祓い屋で、同業者とはそれほど折り合いがいいわけでもなかった。なにかの拍子に誰かから恨みを買っていた場合、仕返しを考える輩がいないとも限らない。  だから断った。夏織を巻き添えにしたくない……その一心だった。  正直なところ、内心では、後ろ髪を引かれるような思いだったが。夏織と出かける機会をむざむざ捨てるなんてもったいないと、頭の中で誰かが叫んでいるのを無視する。  こういう時は感情よりも理性を優先すべきだ。だから我慢した。だというのに……。 「ええ? どうして? 特に用事ないって言ってたじゃない」  夏織が不機嫌そうに頬を膨らませている。  ふわりと花の蕾が綻ぶように笑った彼女は、俺を上目遣いで見つめて言った。 「一緒に行こう。そんなに遠くないし、君に見せたいものがあるの」  大きな栗色の瞳が煌めいている。悪戯っぽく目を細めた彼女は、手を差し伸べてきた。 「…………」  思わず顔を逸らす。……馬鹿野郎。顔が近いんだよ。頬が熱い。  ――ああ。感情がコントロールできない。  ふとした瞬間の夏織の仕草に、表情に……ここまで心を乱されるなんて!  あっという間に頭の中がグチャグチャになった。早々に〝理性的な〟自分を放棄する。 「……はあ。お前は本当に仕方がない奴だな」  平気な風を装って、海の底まで届くくらいに深く嘆息をする。  固く目を瞑って――構わない、と小声で夏織の申し出を受け入れた。 「やった!」  その瞬間、ギュッと手を握りしめられる。  身長は俺より少し高い癖に、一回り小さく、か細い手。  自分とはまるで違う温度を持っているそれが、俺の手に触れている。  ――ああ、やめろ。やめてくれ。  お前の手から伝わってくる熱で、魂の形すら変わってしまいそうだ。 ***  それから一時間後。  俺は、幽世の町から少し離れたある場所へとやってきていた。 「昔、私が小さい頃、ここでよく東雲さんと星の観察をしたんだよ。今の時期、幽世で一番綺麗な場所だから、君にも見せてあげたくて」 「…………そうか」  俺は、夏織に上手く言葉を返せなかった。目の前に広がる光景があまりにも美しくて、一瞬、息をするのも忘れたくらいだったからだ。  そこは小高い丘だった。  森に囲まれているものの、ぽっかりと穴が空いたように、一本の木も生えていない。  まるで手入れされた花壇のように、一面が花で覆われている。 「この……花は?」  言葉を紡ぐのに苦労しながら夏織に訊ねる。蝶避けの香炉を手に持った彼女は、僅かに目を細めると、月明かりを気持ち良さそうに浴びている花の名前を教えてくれた。 「ネモフィラって言うんだよ。綺麗な青色でしょう?」  その瞬間、柔らかな風が吹き、辺りにさわさわと葉擦れの音が満ちた。  背の低いネモフィラの間をすり抜けた春風は、俺の頬を撫で、小さな花を揺らしながら、気まぐれにどこかに飛び去っていく。直径二センチほどの花が揺れると、青い色も相まってまるで海原のようにうねる。葉擦れの音が波音のようにも思えて、一瞬、潮の匂いがしないことを不思議に思ったくらいだ。 「……すごいな」  花の陰から妖精が顔を覗かせてもおかしくないほどの光景に、目の奥がじん、と熱くなった。ふと空を見上げると、そこに見慣れない色を見つけて目を細める。  幽世は常夜の世界だ。太陽が昇ることは決してない。  空の色も、現し世とはまるで違う。星が散りばめられた夜空を彩るのは、桜の花びらを思わせる桃色だ。時折、夏の気配を感じさせる碧が入り交じる春の空が、小高い丘を覆うネモフィラの色を、よりくっきりと際立たせているようだ。  ふわりと光る蝶が眼前を横切っていく。  ――幻光蝶。それは、人の魂が変じたものだ。新しい生に絶望し、転生を拒み蝶へ身を転じた彼らは、人恋しさのあまり人間に集まってくる。正体を知っている身としては、単純に綺麗だとは思えない。だが、今日ばかりは……夏織が俺に見せたいと連れてきてくれた、地上に現れた紺碧の海の中では――燐光を零しながら飛ぶ蝶の姿を、美しく思った。 「ねえ、丘の上に行こうよ。ネモフィラの花畑が絨毯みたいなんだよ!」  夏織の誘いに小さく頷いて――なんとなしに彼女の手を握る。 「……っ!」  途端、パッと夏織の頬が赤く染まった。動揺しているのか、瞳を僅かに揺らして、じっと俺を見つめている。途端に俺まで恥ずかしくなってきて、どうしてこんなことをしてしまったのかと後悔の念が募る。しかし、夏織の小さな手から伝わってくる熱が心地よくて、離すのがもったいなくなってしまった。 「どうした?」 「……う、ううん……」  だから、まるでなにもなかったかのように装った。  こうすれば、夏織から手を離そうと言い出せないだろうと考えたからだ。  ――俺はずるい男だな。  この時ばかりは、感情を殺せと自分を育ててくれた親や老爺たちに感謝する。  何故ならば、俺の表情筋は、奴らの忌々しい教育の結果、他人よりかは少しばかり不器用にできている。だから、ポーカーフェイスはお手の物だ。  丘の頂上からの眺めも、見事のひと言に尽きた。  なだらかに下る丘に沿って、数え切れないほどのネモフィラが咲いている。国によっては、青を貴色とするところもあるという。確かに、ネモフィラの青い絨毯は、思わず背筋を伸ばしたくなるほどに凜とした空気を纏っていて、その意味をじみじみと噛みしめる。 「晴れて本当によかった。ここ最近、雨が続いてたでしょう?」  夏織は、どこかホッとした様子だった。  ――俺にこの光景を見せたいと、日々の天気を気にしてくれていたのだろうか……。  そんな想像をして、少しだけ擽ったくなる。万が一にでも違ったら恥ずかしいので、絶対に口に出したりはしないが……夏織ならやりかねない、なんて思う自分もいる。 「連れてきてくれて……なんだ、その……ありがとう」  口籠もりつつ礼を言うと、夏織は心底嬉しそうにふにゃっと笑った。  夏織の笑顔には、まるで仔犬みたいな愛嬌がある。俺は頬が熱くなるのを感じながら、繋いだままだった手に軽く力を籠めて言った。 「夏織といると、いつも見たことのない景色を知れるな。幽世に来てよかった」  夏織が大きく目を見開く。何度か瞬きをすると――じんわりと涙を滲ませた。 「なっ……! お、おい? 泣くようなことを言ったか?」  慌てている俺に、夏織は首を横に振った。涙を手で拭って、照れくさそうに頬を染める。 「ごめんごめん。水明の言葉があんまりにも嬉しかったから」 「嬉しいと涙が出るのか? ……理解できないな」 「そういうこと、今までなかった?」 「ない。涙は、悲しい時や、苦しい時に出るものだと思っている」 「ふうん、そっか」  夏織はクスクス笑うと、じっと俺を見つめた。  途端に心臓の鼓動が速くなっていって、思わず身構える。夏織の口からどんな言葉が飛び出すのか。早く聞きたいような、怖いような気がして落ち着かない。  夏織は視線をネモフィラの花畑へ移すと、遠くを見るような表情になって言った。 「ここに来たばかりの頃、水明言ったでしょう? 帰りたい家なんてないって」 「……そんなこと、言ったか?」 「言ったよ。私が、現し世に帰れって言ったら即答してた。すごく思い詰めてるように見えたし、顔色も真っ青だった。まるでどこにも自分の〝居場所〟がないって思ってるみたいで。そんなの寂しいなって思ったんだよね」  当時を懐かしんでいるのか、夏織は目を細めると、俺に向かって手を伸ばした。  優しげな手付きで頭を撫でると、涙で潤んだ瞳で俺を見つめる。 「ねえ、君の〝居場所〟は見つかった? そこが幽世のどこかだったら嬉しいな」  ――泣きたい。 「……っ、子ども扱いするな」  ぞんざいな仕草で夏織の手を払って、パーカーのフードを被る。  なにがポーカーフェイスは得意だ。アホらしい。  今の俺はきっと、とんでもなく情けない顔をしているに違いない。  ちらりとフードの陰から夏織の様子を覗き見ると、俺に手を振り払われたのがショックだったのか、しょんぼりと肩を落としているのがわかった。  ――ちょっと言い過ぎたか。 「夏織」 「ん?」  後悔の念に駆られて、夏織に手を伸ばす。  人差し指と中指の背で彼女の頬に軽く触れると、栗色の瞳をじっと見つめた。 「頭を撫でるのは駄目だ。俺は男だからな」 「……っ、う、うん」 「わかってくれればそれでいい」  柔らかく微笑む。その瞬間、かあと夏織の顔が赤く染まった。  ――ああ。コイツ、なんて顔をするんだ。  胸の奥で、じわりと粘着質のなにかが滲む。夏織は両頬を手で押さえて、「自分は気安く触る癖に!?」となにやらブツブツ言っている。  俺は更に夏織に声をかけようとして――なにかが近づいてくる気配を感じ、手を下ろした。腰のポーチを開け、中に仕舞われた護符に指先で触れる。 「待って、あたしよ」  その時、足音ひとつ立てずに姿を現したのは、夏織の友人である黒猫のにゃあだ。  どこかふてぶてしい顔をした黒猫は、金と空色のオッドアイを眇めると、軽やかな足取りで俺たちの足もとへやってきて、まるでなんでもないことのように言った。 「捜しちゃったわ。帰りましょう。幽世の町が殺気立ってる。外にいたら危ないわ」 「どうかしたの?」 「冬に生まれたばかりの子が攫われたって、土蜘蛛たちが大騒ぎしてるの。アイツら、キレるとなにするかわからないから、数日は引き籠もっている方がいいかも知れないわね」 「ええ…… バイトあるのに!」 「諦めて。移動中に襲われたら面倒なことになるわ」  有無を言わさぬ様子のにゃあさんに、夏織はぶうぶう文句を言っている。  どうにも嫌な予感がする。俺は三本の尻尾を揺らし、大あくびしている黒猫に訊ねた。 「それは……この間の騒動と関わりがあるのか?」  黒猫はピクリと髭を動かすと、ツンとそっぽを向いてしまった。 「知らないわ。ぬらりひょんが色々調べているようだけれど。あたしは夏織の最期を看取って、亡骸を食べられたら他はなんでもいい。今更なことを説明させないで」  黒猫はそう言うと、花畑へと足を踏み入れた。夏織と顔を見合わせ、急ぎ足で後に続く。  ――一体、なにが起こっているんだ……?  どうにも胸がざわついて仕方がない。息をひとつ吐いて、なんとなしに鬱蒼とした森へ視線を向ける。瞬間、ゾクリと背中に悪寒が走り、思わず立ち止まった。  常夜の闇に沈む森の木陰。  そこに――月光に青白く浮かび上がる狐の面を見た気がしたのだ。 「水明?」  夏織に声をかけられて、ハッとした。その時には、狐の面はどこにもなくなっている。 「どうしたの? なにかあった?」 「いや……なんでもない」  ――あの狐面。夏織を見ていた気がする。  俺は小さく首を横に振ると、心配そうにこちらを見つめている夏織に向かって言った。 「お前は俺が守るから」 「へっ……?」 「やっと見つけた〝居場所〟を失いたくないんだ」  唐突な俺の宣言に、夏織の顔が赤く染まる。俺は顔を上げて前を見据えると、さわさわと風に揺れるネモフィラの花を強く睨みつけた。
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