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第1話 中庭のマチネ
――秋も半ばだった。
その日の午後はとても暖かく天気が良かった。
公爵令嬢のファビエンヌは取り巻きの令嬢達といつものように学園の中庭で楽しく語らっていた。
そこに思わぬ邪魔が入る。ファビエンヌの婚約者である侯爵令息マティアスが、これまでずっと陰で乳繰り合ってきた男爵令嬢セシルを伴って現れたのだ。
ファビエンヌは大きな目を猫のようにしならせた。
「あらあら、まあまあ。ごきげんよう、マティアス様」
残念ながら挨拶は返って来なかった。
マティアスの口元がモゴモゴと動いたようにも見えたので、もしかしたら、それが挨拶だったのかもしれないが。
美男子と名高いマティアスは思い切った登場をした割に表情が冴えない。
それもそのはず。彼は大きな夜会がある度に突然の急病という理由で欠席を繰り返しファビエンヌのエスコート役をすっぽかしてきた。
これまで散々ファビエンヌから逃げ回っていたのだ。ばつが悪かろう。
「なんだか正面からお顔を拝見するのは、随分久しぶりのような気がいたしますわ」
言っていることは大変嫌味だが、見る限りファビエンヌはとても嬉しそうに見えた。同伴者をどう思ってるかは差し置いて、マティアスの登場を歓迎してると思えるほどだ。
自分の左右に居る取り巻き達に向かってファビエンヌは嬉しそうに目配せしてから更に唇の端を上げてみせた。
それを俯きがちに見ていたマティアスは、捕食生物の前に立っているかのような気分に陥ってしまう。
本当は人目につかないところで話したかった。マティアスは随分前からその機会を狙っていた。だがファビエンヌは公爵令嬢で、人気のない所へ取り巻きなしに一人で行くことなどない。
今日は業を煮やしたセシルに急かされて人目につくのを覚悟で渋々中庭にやってきたのだ。
マティアスは早くもこの場を選んだことを後悔していた。
なぜならファビエンヌの声はよく通る。本人が周囲の人間に話を聞かせようと思えば、声量を出さなくとも、かなりの範囲に声は届いた。
秘密裏に話したいというマティアスの意図を汲む気は全く無いようだ。彼女はこの舞台のプリマドンナとしての役割を楽しむつもりらしい。その証拠に第一声を発した後から見物人がちらほら集まってきている。
「お噂ばかりが聞こえてきて、ご本人はとんとお見かけしないので、マティアス様が学園にいらっしゃるのは、わたくしの記憶違いではと思っていたところでしたのよ」
コロコロと笑いながらファビエンヌは可愛らしく、こてんと小首を傾げた。
それを見ている顔色の悪いマティアスの引き結んだ唇が震える。
少し待ってみたが一言も発しないことに焦れてファビエンヌは声をかけた。
「――マティアス様?」
マティアスの右腕に縋り付いていたセシルは急かすようにその腕を揺すり始めた。
その尻に敷かれた様子をファビエンヌは取り巻きの令嬢達と共に白けた気分で眺める。
「なにかお話があっていらしたのかしら。わざわざ噂に高いご令嬢を腕にぶら下げていらしたのですもの。どのようなお話かしら。期待してしまうわ」
クスクスと笑いが巻き起こる。
その笑いの出処がファビエンヌと彼女の取り巻きだけじゃないことにマティアスとセシルは驚いて周囲を見渡した。
ほんの僅かな間に中庭に面した回廊の窓には見物人が鈴なりになっていた。一階は人が溢れ、二階にも多く集まって、三階の良い場所で見ようとする者も出ている始末だった。
学園の生徒たちはこの昼公演の喜劇を見逃すつもりはないようだ。
分が悪いのは明らかだった。
マティアスは今回は諦めようとセシルに同意を求めて目線をやるも彼女の意見は違った。涙目のまま頭を何度も横に振ってセシルは今日決着をつけて欲しいと目で訴えた。
婚約を白紙にするために話をつけるとマティアスが初めて口に出したのは四ヶ月も前だ。人目を忍んでの逢引も噂になっていてセシルも肩身の狭い思いをしている。精神的に限界なのだろう。愛した女にこうも強請られてはマティアスも引き下がることは出来ない。
何度もつばを飲み下して、まずは一言目を発声しようとマティアスは努力した。
やっと絞り出せたのは自分の婚約者の名前だった。
「……ファビエンヌ」
「はい。なにかしら、マティアス様」
にこりとファビエンヌは笑った。名を呼ばれたのが本当に嬉しいように見えた。
マティアスはこの場にそぐわない笑みに恐怖を感じる。
「こ、婚約を……」
ファビエンヌは右手をサッと上げて続く言葉を遮ると、すっくと立ち上がって周囲を素早く見渡してから手を三回叩いた。
その高い音は中庭に存外よく響いた。
「みなさま! どうかお静かになさって? わたくしの婚約者のマティアス様がなにやら大事なお話をされるようですの!」
鞭のような印象を与える声に反応した見物人達は一斉に口を閉じた。まるで名指揮者のような手並みだった。
潮騒のような人の囀る雑音の一切が消える。柔らかな風が草花を撫でながら渡る涼やかな音のみが聞こえてきた。
ゆっくり周囲を見渡したファビエンヌは効果の程に満足して頷いた。
「――申し訳ありませんでした。マティアス様。どうぞ続きを」
事情も知らず三秒前から見始めたら誰もが親切心からの行いだと思えただろう。それほど邪気のない柔らかな笑みをファビエンヌは浮かべていて続きを促す言葉も優しかった。
見物人達はファビエンヌが残忍な遊びに興じる猫のようにマティアス達を手の中で嬲ることに決めたのだと感じて成り行きを見守った。
ネズミの……いや、マティアスの顔色は、もう紙のように白い。彼は走ってこの場から逃げ出したいと思っていた。けれど右腕から強い力が加わって小さく低く自分の名を呼ぶ声が聞こえると、もう後戻りは出来ないのだとマティアスは覚悟を決めた。
マティアスは思わず漏れ出た溜め息を吐ききってから高らかに言った。
「ファビエンヌ! わたしはきみとの婚約を破棄したい!」
驚く声が四方八方から上がったが、当のファビエンヌは全く驚いた様子はない。
このマティアスが勇気を総動員した婚約破棄の言葉に、言われた当人は軽く肩を竦めただけだった。
「あら、なぜ?」
甚だ疑問と言わんばかりの簡潔な返事だった。
予想と違う反応だったのでマティアスは怯んでしまう。
「それは……きみを……愛していないからだ」
モゴモゴと歯切れ悪い言い方で理由を伝えるとファビエンヌは心底驚いた顔をする。もちろん演技だが。
「まあ。四年前に婚約したとき、わたくしを愛していらしたの?」
「それは……違うが……」
次の言葉を言うまでファビエンヌはたっぷり間を取った。
「では――本当は?」
悪いことをした幼児を問い詰めるような優しい話し方だった。
往生際の悪いことに、こんなことになっても明言したくなかったのだろう。マティアスは一瞬唇を噛みしめる。
「セシルを……愛してしまったんだ。わたしは……彼女を伴侶にしたい」
自分の出番が回ってくるのを今か今かと待っていたセシルは両手を強く握りしめてファビエンヌに言い募った。
「ファビエンヌ様! お願いします! わたしたち愛し合っているんです! 本当にごめんなさい。わたしマティアスを愛してしまったんです!」
セシルが感極まってファビエンヌに向かって叫んだことで周囲の空気が動いた。非難の声が口々に上がる。
「男爵風情が公爵家の令嬢に許しもなく口をきくなんて!」
「身の程知らずが!」
「婚約者がいる男性の名を呼び捨てているの? なんて非常識な!」
「馬鹿な人達! そんなこと、家を捨ててからやればいいのよ!」
「良識のある貴族のやることじゃないな」
周囲に素早く目を走らせたマティアスは右腕でセシルを胸にきつく抱いて非難する人々の言葉と鋭い眼差しから庇った。
誰にも事情が知られていなければ、美しい場面だった。
それを冷めた目で見ていたファビエンヌは、また三回手を叩いた。
「みなさま。どうかお静かに……」
脱力感を覚えた状態で喋ったせいか群衆のざわめきはすぐに無くならなかった。
ファビエンヌは不機嫌と分かるようにわざと目を細めて周囲を見渡す。
自分たちが静かにしないと話が進まないことに気づいて群衆は口を閉じた。
ようやく静かになるとファビエンヌはマティアスに向き合った。
「マティアス様、そのお話はお父上のバイエ侯爵はご存知なの?」
マティアスは目を下に落とす。
「――いや」
「では、わたくしの父には?」
この質問にマティアスは力なく頭を横に振る。
「いいや。先にきみに……」
もうマティアスの意図に気付いてしまったファビエンヌはうんざりしながら心の中で悪態をつく。そして、それをおくびにも出さず、とても淑やかに微笑んで彼女は言った。
「ご存知のとおり、この婚約を決めたのは、わたくしではございませんけれど……わたくしに言ってどうにかなると思われましたの?」
マティアスは言いづらそうに目を右に左に彷徨わせた。
「できれば……きみからお父上のエマール公爵に取りなして貰えたらと……」
言ったきり、マティアスは俯いた。
侯爵家から格上の公爵家に婚約破棄を言い渡すのがどんなことなのか分かっていて更にファビエンヌに執り成しを願っているのだ。
それに冷笑したのはファビエンヌだけではなかった。その場にいる貴族の令嬢令息たちからも冷笑は同時に起きた。
そのとき、右奥の廊下から高く小さなざわめきが起こる。
ファビエンヌは、その喧騒の原因を見つけると唇に人差し指を押し当て静かにするように合図した。
この中庭の見世物が一番楽しめる窓際を人々に譲られた男は、ファビエンヌから沈黙を指示されたことに不満を表した。
ファビエンヌはそれを見て愉快そうに声を出さずに笑っただけだった。
沈黙が気不味く思えてマティアス達が耐えきれなくなるギリギリまでファビエンヌはわざと黙っていた。
案の定マティアスとセシルの体が落ち着き無く動き始める。
「これほど大人数の前で婚約破棄されたいとおっしゃったのですもの。今更なかったことには出来ませんわね」
思わずセシルの口の端が上がる。
マティアスの神妙な顔を真似ようと本人は苦心して顔を作ったようだが、生粋の貴族令嬢でないセシルはポーカーフェイスは得意ではないようだ。
「いいでしょう、マティアス様。貴方様の恥知らずで非常識な申し入れをわたくしの父に取りなしましょう」
この高らかな宣言を聞き、見物人がざわめいた。
俯いていたマティアスもその胸の中にいたセシルも顔を上げてファビエンヌを見た。
ファビエンヌは右手を高く上げて群衆を黙らせる。周囲が十分静まってから話を続けた。
「もちろん条件がございます。それを呑んでくださるなら、わたくしはこの婚約を白紙にすべく尽力いたしますし、この場でマティアス様の非常識極まりない恋を皆様の前で祝福することも誓います」
マティアスは、またセシルを守るように右腕で抱き込んで懇願する。
「頼む――余り無理なことは」
マティアスの顔は情けなく歪んでいる。美貌が台無しだ。
ファビエンヌは怯えた子供を安心させるような調子で、とても明るい表情と明るい声を作って言った。
「ご安心なさって。マティアス様。とても簡単なことですわ」
信じられる訳がない。顔を顰めてマティアスは先を促した。
「――言ってくれ」
一拍置いてファビエンヌの顔から笑みが一欠片も残さず流れ落ちて消える――。
これにはマティアス達も見物人達も彼女の取り巻き達も緊張感から思わず息を詰めてしまう。
「これから―――わたくしが話すことをマティアス様が伴った身の程知らずのご令嬢と共に、黙って最後まで聞くことが条件です。つまり、わたくしが話し終えるまで、決して口を開かず、遮らず、声を出さず、音も立てず、この場から立ち去らないこと。ただ、それだけです」
セシルへの侮辱的な表現を否定したくて反射的に唇が動いたが今言うべき言葉ではない。そう思い直してマティアスは沈黙した。それくらい言う権利をファビエンヌは持っている。
元より条件を呑むしかないとマティアスも分かっているがファビエンヌの行動が疑わしくて仕方がない。自尊心をおおいに傷つけられたであろう彼女がこれから言うことは恨み言以外にあるだろうかとマティアスは考える。
ファビエンヌは気位が高い。家名を汚すことや事実と異なることを言い散らしたりはしないだろう。よくよく考えて自分にとって後ろ暗いことがセシルのこと以外ないマティアスは婚約者がこの場で恨み言を言って溜飲を下げるのに付き合うべきだと考えた。自分の行いが人に後ろ指をさされるようなものだということ位はマティアスも分かっている。
不安な目で自分を見上げるセシル。その背中を軽く撫でることで気持ちを伝えてからマティアスは言った。
「わかった。条件を呑もう」
幸せになりたかったのならマティアスは条件を呑むべきではなかったし、そもそも人前での話し合いを避けるべきだった。なによりセシルの誘惑に乗って婚約者を裏切るべきではなかった。
種をまいたら、刈り取らねばならない。たとえ自分が望まない収穫物でも。
マティアスが半年前にまいた種は収穫時期を迎えた。
それは不実を糧として人目を避けた日陰で良く育った。
ファビエンヌは婚約者として、その収穫を手伝った。
刈り取るために大鎌を振るったのである。
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