第2章 再会

9/17
31人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ
「織田辰夫、遂に離婚か?」  ふとネットで眼にしたゴシップ記事に亜美の胸が騒いだ。  次々と相手を替え浮き名を流していた辰夫が結婚したのは三年ほど前のことで、それまで、もしかしたら、と彼との復縁を諦め切れなかった亜美が、絶望に陥って睡眠薬を手放せなくなったのと期を一にする。  あれほど結婚や夫婦という制度とは無縁と思われた男に入籍を決意させた女性がいたという事実に打ちのめされ、亜美は立ち上がれなくなったのだった。ゴシップ誌を読み漁っても、相手が妊娠したということではないらしく、それほど美人でも若くもなく、単なる一般人女性だということが納得できなかった。  どうしてこの私でなく、あの女性なのか。  その問いに悩まされ苦しめられ、挙句の果てには一睡もできなくなった。  今、その女性と彼は離婚するという。  考えてはいけないと思うほどに、心の中に妙な期待が盛り上がりはじめたことに気づく。バカな、彼とはもう無関係なはず、と思いこもうとしても、まるで胸に潜む悪魔が耳許で語りかけるのだ。チャンスじゃないか、と。  来週の復帰記者会見の準備に、とネットで自分に関する記事に眼を通していた時に、不意に辰夫の離縁記事が検索されたのだった。 「・・難波亜美の復帰と無関係ではないとの情報もある・・」  取るに足らない、根も葉もない憶測記事だったが、それでも亜美の心は揺れる。  自堕落な生活を送り芸能界を追い出されたのは失恋が原因だ、とマスコミには広く知れ渡り、揶揄されていた。今度こそ立ち直ろうと再起を決意している亜美の前に、タイミングよく離婚した辰夫が現われたのだ。  ゴシップを逆手に取って売りこみに使おう、と自嘲し冷めた眼で記事を読み返しながら、亜美は心の奥に渦巻いている密かな願いに気づかずにはいられない。ひょうたんから駒、ではないが、ひょっとして辰夫が再びアプローチしてくれないだろうか、と。  バカな。亜美は急いでネットの記事を閉じた。  十年もの間これだけ苦しめられ、揚げ句には芸能活動や社会的信頼さえ棒に振ったくせに、その原因となった男とまたよりを戻したいと思うなんて、浅はかにもほどがある。  しかし、自分をそういましめればいましめるほど、浅はかな妄想が黒い織のように心に絡みつく。忘れようと思えば思うほど思い出してしまう、あの幸せだった日々。彼と過ごし、彼に守られていた輝かしい日々。  亜美は思わず両手で顔をおおった。せっかく意識からぬぐい去ろうとしていたのに、あれほど苦労して記憶から抹消したはずなのに、彼との記憶は遠ざかるどころか、まるで昨日のことのように瞼に蘇ってくる。  精神科医に電話しようかと考えてから、亜美は芹沢に連絡した。来週のインタビューの前に、是非彼と話がしたかったのだ。もしも辰夫とのことを聞かれたら、いったいどう答えるべきなのか、を。  あいにく電話は繋がらずメッセージを残したが、亜美は急に不安に襲われた。動悸が速まり、冷や汗が出る。落ち着かなくては、と思うのだけれど、自分でも自分をコントロールできない。無性に睡眠薬が欲しくなった。  薬を飲みさえすれば、意識を大人しく眠らせることができる。自分ではどうにもできない焦燥やら不安から、救い出してもらえるのだ。  睡眠薬は全部取り上げられてしまったが、バスルームの引き出しに風邪薬があったことを思い出した。ひょっとしてあれを飲んだら、眠れるだろうか。  亜美が腰を上げようとした時に携帯が鳴った。芹沢が折り返してくれたに違いない。  急いで応答すると、大輝だった。 「亜美さん、どうしているかな、と思って」  大輝の声は屈託がない。このところ時おり電話してくれる彼に、いつもだったら努めて明るい応対をするのだが、亜美はついほとばしるように喋っていた。 「薬が欲しいの。動悸が速まって、息が苦しくて、どうしたらいいのか、わからない」 「亜美さん、落ち着いて。いいかい、先ずキッチンに行って、水を飲んで。電話、切らないで。いいね」  言われるままに、亜美はキッチンに行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、キャップをひねるとボトルから直接水を飲み干した。気のせいか、少し鼓動が収まったように思える。 「亜美さん、大丈夫? で、どうしてパニックになったのか、出来れば話して欲しいな」  携帯の向こうから努めて穏やかな声を掛けてくれる大輝。彼の声を聴いていると安心できる。しかし、何を打ち明けられるというのだろうか。昔の男の話などしたら、嫌われるに決まっている。マスコミで騒がれていた醜聞はやはり本当の話だったのだ、と呆れられるに違いないのだ。 「もう、いいの。水を飲んだら、落ち着いた。スッキリしたわ」  大輝はしばらく沈黙していたが、それから淋しそうな声を出した。 「僕は信用されていないのかな・・」 「そんなこと、ない。大輝さんには感謝しているし、とても信用している」 「じゃ、どうして本当のことを打ち明けてくれないんですか? 何か、あったんでしょう?」  声を聴きながら、大輝にまで失望されてしまったらしいことが、辛い。 「何があった、ということでもないの。来週、報道陣の前で復帰インタビューすること、大輝さんにも話したわよね。で、今になって怖気づいてしまったの」 「それは、・・それはもしかして昔のことを尋ねられるかもしれない、という懸念ですか」  図星だったが、亜美は意図して笑ってみせた。 「それだけじゃないわ。この前のコンサート、高音が出せていないって辛口のコメントを書かれたし、前より太ったんじゃないかとも嫌みを言われた。・・今の自分に、辛辣な質問に応えられる自信があるだろうか、って考えたらすごく不安になった。インタビューの間、笑顔を絶やさないでいられるか、心配なの」  電話の向こうで大輝がいつものように励ましてくれている。親身になって心配してくれるこんなにいい人にさえ心を開くことができないのだ。  そう悟ると、亜美は無性に自分が嫌になった。しかし、いい人だからこそ、心の奥底に潜む妄想じみた願いなど、決して明かしたくはない。これ以上彼を心配させ失望させたくない。  大輝が真面目な声音で続けた。 「・・とにかく、自分を裏切らないことです。思っていることを言わないのは、身体に毒だ。もし、・・もしもですよ、もしも清算できていない想いがあるのだったら、それも経験だった、と正直に明かせばいいじゃないですか。芸能界の人が求めているのは自立した歌姫としての亜美さんであって、誰にもあなたが胸に秘めている気持をとやかく言う権利はないわけですから」  大輝の言葉に驚いて、亜美はしばらく息を止めた。もしかして、彼は気づいているのだろうか。薬物中毒は卒業したものの、心の奥底ではまだ辰夫を求めているこの悲劇を。 「大輝さん、私を非難しないの? どこまでバカなヤツだ、って身放さないの?」 「僕にとって大事なのは、亜美さんに心から笑顔を見せてもらうことです。だからあなたを泣かせるような男は容赦しない」  冗談めかした言い方だったけれど、どうやら大輝は愛を告白してくれているようにも思えた。いや、きっと心配してくれているだけだ。父や母や慶太と同じように、再び自暴自棄に陥らないように、と廻りの皆が気を遣ってくれているのだ。 「大輝さん、優しいのね」  電話の向こうで大輝が一瞬息をひそめた。それと知らないうちに彼を傷つけているのかもしれない、と亜美は不安になる。 「たぶん僕に演じられるのは、その優しい男という役ぐらいでしょうね。でも、忘れないでくださいね。僕はいつだって亜美さんの味方ですから」  電話を切ってから、亜美は大輝に感謝した。まだ辰夫のことを想っているという隠された事実を軽蔑しないでくれたことに、そして、泣かせる男は容赦しない、と力強く語ってくれたことに。  並んで海岸を歩きながら茶髪を風にそよがせていた若い男の顔を瞼に思い起こす。もしかしたら大輝は辰夫に似ているかもしれない、とふと思う。性格はまったく違うけれど、こちらを見つめる優しい眼差しとか、照れると少し膨れ面をしてみせるところとか。  それとも、大輝に惹かれているからそう思えるのだろうか。或いは辰夫を忘れるためだけに大輝を利用したいと密かに願ってのことだろうか。  その考えは愉しいものではなかったので、亜美は急いで頭を振った。純粋で優しい大輝の気持ちをもてあそんだりしたくはない。それに、彼みたいな若い男がこの三十路の女に惚れるとは考えにくいから、きっとすべて妄想だ。  
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!