Just trust yourself, then you will know how to live.

7/7
205人が本棚に入れています
本棚に追加
/391ページ
「家探し、手伝うよ」  樒はアイスコーヒーにバニラアイスをのせたグラスを、エレナの前に置く。  もう片手には、自分用のブラックアイスコーヒー。  テーブル越しに向かいの席に腰を下ろして、気負った様子もなく声をかけてきた。 「不動産屋さんへ行く、ってことですか?」 「そう。藤崎さんは、ひとにお願いとか相談とかするの苦手そうだけど、まだこのへんの土地勘も無いだろ。地元民が付き添った方が、話が早い。保証人欄も俺が書くから。早ければ、今日中にでも決められる」  目の前のいかにも冷たそうなコーヒーフロートを気にしながら、エレナは樒へを視線を向けた。  異国の血が混ざりあったような、彫りの深い顔立ち。無造作に束ねられた、灰色の髪。ごろっとして枠の重そうな黒縁眼鏡。  少し色味の薄い、形の良い唇を見つめていたら、ふっと笑いの形に口角が上がった。 「何見てる? 俺?」 「あっ……はい。保証人もなんて言うから、びっくりしてしまって」  言い訳しながら、グラスに手を伸ばし、ストローでコーヒーを飲んだ。  苦みにバニラアイスの甘みが溶け込んでいて、干上がった喉に染み渡る。 「美味しい。このコーヒーも、樒さんが淹れてるんですか」 「アイスコーヒーは既製品。業務用。『海の星』も使ってない?」 「見覚えはないですね。夏メニューなのかも」 「そっか。じゃあ、そろそろかな。暑い日が増えてきたから」  自然に仕事の話になった。そのまま質問を重ねそうになり、エレナはひとまずコーヒーフロートで喉を潤して、ほっと一息つく。 (美味しい。生き返る……。バニラが強めかな?)  ぼんやりしかけたところで、樒に「藤崎さん」と呼ばれて、現実に引き戻された。 「それで、今日は学校休める? って聞こうとしていたんだけど……。藤崎さんは、予定詰め込むよりまず休む方が良さそうに見える。ここ半年、毎日学校と『海の星』で、完全オフがないんじゃない? 朝早くて夜は遅くて、土日も働き詰め」  休み? と考えてみたが、よく思い出せない。 (言われてみれば、いまは会社員時代よりずっと忙しいかもしれない。前の仕事は、土日休みだったから……)  毎日予定があり、家に帰ればひとの気配がある。    気を張っているつもりはなかったが、ひとりになってのんびりする時間はまったくなかった。  だが、それはエレナの周りのひとにしても、同じこと。 「学校もバイトも、椿邸での生活も、全部自分で選んだことです。それに、朝早いと言っても、香織さんのほうがずっと早いし、西條くんや岩清水シェフも休んでいるところを見たことがありません。私は、他の人ほど大変じゃないはずなんです」  だから心配されるようなことは、というつもりで言ったのに、樒は相槌すら打ってくれなかった。  表情は、変わらずにこにことしたまま。 (あれ? 聞こえなかったのかな?)  変な間があいたことを気にしつつ、エレナは甘苦く冷たいコーヒーに口をつける。  樒は、まだ何も言わない。  待ってみる。  沈黙に耐えきれずに、上目遣いでそっと様子を探った。 「『なんで何も言ってくれないの?』って顔に書いてある。俺に何か、言って欲しい?」 「べつに、そんなことはないです」  目が合った樒に、まるで「構ってちゃんだね」とばかりに言われて、エレナはぴしゃりと言い返す。 (休みないよね? って聞かれたから、自分で選んだことですって言っただけ。普通の会話じゃない。どうして煽ってくるのよ)  コーヒー飲んだら帰ろう、そうしようと心に決めて、スプーンを手にする。アイスをひとくち。  ふわっとした甘さが心地よく口の中に広がり「美味しい」と声に出して呟いてしまった。 「どうも。アイスは自家製」  さらっと返される。  エレナは顔を上げて「すごいですね!」と心からの褒め言葉を口にした。  樒が、ふふっとふきだした。 「甘いもの好きなの? おかわりいる? キャラメルアイスもあるよ」 「樒さんが作ってるんですか?」  食べてみたいかも、と腰を浮かせかけてから、自分が一瞬前まで彼に対していらついていたことをようやく思い出した。 (アイスにつられて、瞬間的に忘れた……! 帰ろうと思っていたのに)  それどころか、不機嫌が彼に伝わるほどに、大人げない態度を取ってしまった後なのだ。  自分が忘れても、樒が忘れてくれているとは思えない。  つくづく、彼に対して自分の振る舞いは度を越してわがままだと反省しつつ、頭を下げる。 「ごめんなさい」 「何が? って聞くのは、この場合意地悪になるか。いま藤崎さんが何を考えたかは、なんとなくわかる。そういう移り気とか、怒りっぽさを、世間では『疲れている』って言うんだ。香織がどうとか、西條がどうとか、関係ない。ひとはひと。自分は自分。男の体力を基準に考えたところで、藤崎さんが同じことをできるわけじゃないし、その必要もない。俺の言ってること、通じてる?」  淡々と、詰められる。  厳しい言葉ではないが、強がって言い返すにはあまりにも隙がない。 (そもそも、私は樒さんに対して何か張り合う間柄でもないのに。つんつんして言い返す方がおかしい。それをしてしまうのは……)  思い当たる。  彼は年上で、いつも落ち着いていて、余裕がある。  察しが良く、話しやすくて、しかもエレナに対して好意を示してくれているのだ。  そこにつけこむように、他の人にはしないような態度を取ってしまう。 「言ってることは、わかります。すみません、私、樒さんにすごく甘えてました」 「それは構わない。俺に甘えてんなぁ、と思いながら藤崎さんと話すの楽しいから」 「野良猫が懐くような……?」  予想通りの余裕たっぷりの答えに対し、エレナが聞き返すと「いや」と樒はきっぱりと否定した。 「猫には下心抱いたりしない。藤崎さんを手のひらで転がすときは、もう少しゲスいこと考えてる。この美人、警戒心強いわりに自分のことよくわかってないみたいだから、このままぐずぐずに甘やかしたらやばそうだなって」  とても悪そうな顔で微笑みかけられて、妙に腑に落ちるものがあった。  聖人君子ぶられるよりよほど安心する、と完全に心の一部が麻痺したことを考えながら、頷いてみせる。 「やっぱり、手のひらで転がされていたんですね、私」  それも仕方ない、樒さんにはかなわないからな、と清々しいまでに負けを認めたところで、眉をひそめた樒にこんこんと諭された。 「それはもう。疲れている藤崎さん、見ているこっちが焦る。下心通り越して、おじさん心配になってきちゃったよ。まず寝たほうが良さそうだ。椿邸で安眠できないなら、いっそ温泉に一泊でもしてくるといいよ」  言われた内容を想像して、エレナは屈託なく笑った。 「ああ~、いいですね~。でも温泉旅館って、あんまり一人部屋ないですよね。高くつきそう」 「それは諦めるしかない。ゆっくりできると思えば……」  飲み終わったグラスを手にして、樒が立ち上がる。  その背を見ながら、エレナも席を立った。  手を伸ばして、シャツの裾を掴む。わしっと、無の心で。 「……あの、藤崎さん?」 「土地勘ないひとには、地元民が付き合うって、言いましたよね」 「違う話題のときに」  振り切るように、樒は歩き出そうとした。  だが、ぴん、とシャツが突っ張ったところで、足を止めた。 「温泉に行きたいです」 「言い出したのは俺だけど……、本当にそこ甘える? 相手間違えてない?」 「樒さんにお願いしています」  断られたらどうしよう、という複雑に分岐した未来を想定するほど、余力がなかった。  ただただ欲望のままに「温泉……」とエレナは繰り返し呟き、樒に悩ましげな溜息をつかせてしまう。  振り返り、視線を流してきた樒は「わかった」と、諦めたように言った。
/391ページ

最初のコメントを投稿しよう!