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不機嫌な声だった。暗い瞳が僕を覗き込んでいる。拾われたあの日に僕を覗いていた瞳。
「俺には向いてない。無駄にデカい体が邪魔だ」
僕に話しかけているのは明らかだ。ついに気でも触れたのだろうか。猫と会話? 馬鹿げている。
「お前が出来たことは今は俺が出来る。俺に出来たことは今はお前が出来る」
言いながら、この家の一人息子がそのまま隣に腰掛けてきた。
「お前は随分しっかり飼い猫をやるじゃないか」
息子の事を考えていたからか。タマである僕とは別の誰かが簡単に想起される。
「人は出来ることは多いが、人の生活そのものに魅力がない。はっきり言えば不便しかない。正直に言えば元に戻りたい」
何を、いつを、指して元と言うのか。僕は戻りたいとは思わない。
受験の失敗が原因じゃない。たまたまキッカケが受験の失敗だっただけだ。割れた鋳物に戻ってどうしろと言うのか。
「死にたくなかった。外は厳しく過酷だった。人は強く怖かった。目の前に人が居た。人だったならば、そう思った」
一つの願いを口にする。
「もう考えることができなかった。壊れていた。死にそうな猫が居た。代わってやりたい、そう思った」
もう一つの願いを口にする。
確かにあの時、一人と一匹の願いは合致していたと思う。偶然ではなかったのだろう。呼ばれた気がして、ふらふらと庭先まで出ていったら、そこに傷ついた猫が倒れていた。
「願いが叶ったと思った。でも叶えてみれば、人の生き方はよくわからない。所詮、猫は猫。でもお前は人だけど、まだ人として生きたことないって思ってる」
それはそうだ。生きてきた二十数年には周りから人生というラベルが貼られるだろうけど、何もプレイバックが思い浮かばない。
「今の俺はある意味お前の続きだけど、俺とお前は酷く混じり合ったけど、それでも俺はお前とは違う。今のお前も、昔のお前じゃない」
隣に腰掛けているそいつが立ち上がる。
「人間、始めてみたらどうだ」
そう言い残して自分のことを俺と呼ぶ僕は、部屋に戻って行った。
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