夜風にも似て

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夜風にも似て

 初めから、目の綺麗な男の人だと思っていた。  瑞々しく潤んだ、艶を帯びた黒。深く澄んだ色合いで、清流を覗き込んだような透明感。 (吸い込まれそうな瞳って、ああいう目のことを言うんだろうなあ……)  真夏でも汗一つかきそうにない涼しい面差しも、すらりとして背筋の伸びた立ち姿も、すべてが一幅の絵のようにうつくしかった。  目を奪われる。  息を止めて見守る岩清水和嘉那(いわしみずわかな)の前で、その男は馴染みらしく気安い調子で店員と話していた。  レストラン「海の星」。  駅からは離れた立地ながら、趣ある洋館とアンティーク家具類をふんだんに取り揃えた店内には、非日常的な華やぎがある。和嘉那の実の弟である岩清水由春(よしはる)がオーナーシェフとして采配をふるっており、陶芸家である和嘉那はブランド「和かな」を立ち上げて食器のデザインと製作を担当していた。  エントランスには、壁掛けの時計の下、漆に蒔絵と螺鈿の施された飾り台が置かれており、和嘉那が昨日納品したばかりの初夏から夏をイメージした販売用の食器が並べられていた。  「海の星」をオープンして少し経った頃から、食器に関する問い合わせが何件かあると由春に言われ、試しに販売も始めたところ、現在まで売れ行きはなかなか好調に推移している。  中でも、よくレストランを利用してくれる「いつものお客様」で、殊のほか食器を気に入り、新作を出すたびに購入してくれる人がいるという。  ちょうど今日、そのお客様が特別コースで予約を入れてくれているということで、合わせていくつか皿を仕上げていた。昨日がレストランの定休日だったこともあり、由春と店員の蜷川伊久磨(にながわいくま)が和嘉那の工房まで出向いて引き取って行ってくれたのだが、コースの最後に使ってもらうつもりだった湯呑を入れそびれてしまったのだった。 (お年を召した方で、優し目の食事をというオーダーで、最後のデザートに黒豆茶を合わせるって言っていたのよね……)  無ければ無いでいくらでも代用品はあるだろうが、せっかく作ったし、使ってもらいたい。  今まで、なぜか「いつものお客様」のことを話したがらない由春から、ようやく「お年を召した方」と聞いたせいで心が逸ったというのもある。会おうと思ったときに会わなければ、会えなくなってしまうかもしれない。  納品ついでに、隅で待たせてもらって、ご迷惑でなければ一言だけご挨拶を。  いつもありがとうございます、励みになっています。あなたが使ってくださることをイメージして作った食器がたくさんあるんです、と。  そのつもりで、思い切って湯呑を持って、工房のある山奥を車で出発し、いつもよりは身だしなみに気を遣って「海の星」に来た。事情を話して店員の伊久磨に湯呑を託した。  ついでに食事をしていく話になって、席が空くまで入口で待っていたら、ラストオーダーも間際という時間になって、その男が現れたのだ。  一瞬、夜風が人の姿をとったのかと思った。  涼やかなドアベルの響きとともに、颯爽と入ってきて、店員の伊久磨と話し始める。身長が百九十センチ近くある伊久磨には及ばないが、均整のとれた体躯にかっちりしたジャケットと細身のジーンズがよく似合っていた。  会話が耳に届く。予約していたが、食事の相手が現れず、席をキャンセルしようとしているらしい。 「今から別のお客様というのも難しいですし。食事はしていってください。お相手が必要でしたら、ご相伴に預かりますから。うちのメンツで代わる代わる」  伊久磨がとぼけた調子で言うと、男はにこりと微笑んだ。 「とんだ罰ゲームだ」  会話からするに、店員と客という以上に、友人のような仲を思わせた。伊久磨の「うちのメンツ」というのが「海の星」のメンバーのことなら、由春とも知り合いなのかもしれない。  伊久磨はキャンセルになるのを残念に思い、引き留めようとしているように見える。  どうしようか、一瞬迷ってから和嘉那は口を開いた。 「キャンセル? 席空くの?」  突然会話に入ったせいで、伊久磨が少し動揺した気配があった。 「はい。あ、いいえ」  曖昧な返事。  その伊久磨を見て、男がしずかな声で尋ねた。 「……席待ちの?」 「ええと、まあ」  さらに困ったように伊久磨が答える。  確かに、和嘉那は席を待っていると言えば待っているのだが、店の関係者なのでお客様とも言い難い。  その微妙な空気を押し切るように、男が和嘉那に向き直って、にこりと微笑んだ。 「食事の相手が急用で都合がつかなくなってしまって。もしお待ちでしたらどうぞ」  小さく息を飲んだ。  面と向き合って、笑みを湛えた澄んだ黒瞳と視線が絡んだ瞬間、背筋がぞくりとする。綺麗すぎる目だ。  それから、まわらない頭でなんとか考えた。 (どうぞってことは……?)  自分はキャンセルなので、席が空きますから、食事をしていってください、という意味だろうか。  まさかこのひと、店に顔を出しておいて、食事をしないで帰るのだろうか、ともやもやが一気に胸の中に広がる。  何か言わないと。和嘉那は焦って口を開く。早く引き留めねばと気が急いて。 「あなたは? ごはんまだ? 今帰ろうとしていませんでした? 今日ここで食事の予定だったんじゃないですか。帰ってどうするんですか? 餃子食べるの?」  しまった。餃子を食べたいと思っていたせいで、変なことを言ってしまった。  しかし、男はまったく気にした様子もなく感じの良い笑顔のまま答える。 「まあ何かしら適当に。一食くらい抜いても問題ないですし」 (ああ~、やっぱり帰るつもりだ。なんで? 予約のあるレストランに来て、お腹空いたまま帰るの?)  そんなのおかしい、とつい口調がきつくなる。  「食べて行けばいいのに。レストランに来て、席もあるし料理もあるのに食べないで帰るなんて」  男の笑顔は、取り立てて変化したようには見えなかった。  ただ、やけに冷ややかな印象になった。  機嫌を損ねた気配。 (ん~~そうだよね~~。もう少し丁寧な口調で言うべきだったよね)  察して、和嘉那も笑みを保った裏で激しい自己嫌悪に顔を強張らせる。  彼の話し方は最低限の礼儀をわきまえたものだったのに、自分はなんだかがさつな物言いをしてしまった。山籠もりして普段ろくに人と話していないせい、なんて言い訳できない。情けない。  というか、本当に失礼。 (伊久磨くんとは知り合いみたいだけど、私とは一面識もない他人だもん、びっくりしたよね。あ~、これで店の関係者なんてバレたら、店の評判に関わっちゃうかも)   なるべくなら、名前を名乗らないで終えたい。  だけど、食事はして行ってほしい。  その微妙な空気を知ってか知らずか、伊久磨が提案してきた。 「お二人でどうぞ。どうしても嫌ならテーブルの真ん中に衝立用意しますから」 「伊久磨。なんでいま名案みたいに言ったのかな」  すかさず男が返す。伊久磨、と名前で呼ぶ程度には親しいようだ。  一方の伊久磨は落ち着き払った様子で言った。 「二人席が一つ空いていて、食事がまだの二人のお客様がいるわけです。本来は相席をお勧めすることはありませんけど、(たたえ)さんさえ良ければ」  ちらりと和嘉那に目を向けてくる。 (湛さん)  名前? 苗字?   はっきりわからないな、と考えながら和嘉那は答えた。 「私は構わないわよ」  余計なことを考えていたせいで、妙に煽る口調になってしまった。何やってんだろう私、と頭を抱えたい気持ちになったときに、男がさりげない調子で言った。 「わかった。そうしよう」  驚いて、声も出さずに和嘉那は男の顔を見上げてしまう。 (断られると思ってた)  かくして、和嘉那は「湛さん」と食事をする運びになってしまったのだった。
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