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紫陽花
レストラン「海の星」はシェフの由春、ホールの伊久磨、パティシエの真田幸尚という三人の青年で営業をしている。
由春はずっと海外放浪をしてきて腕はなかなかのもの。伊久磨はのんびりした雰囲気ながら空気を絶妙に読む青年で、幸尚も二十歳そこそこで髪はピンクというパンキッシュな見た目ながら、可愛いデザートプレートを作りファンも多いらしい。
なにぶんスタッフの数が少ない為、客席も多くない。
用意されていた席は一番奥まったテーブル。観葉植物で視線を遮られ、頭上のアンティークのペンダントライトに照らし出された、こじんまりとして落ち着いた空間だった。
やはり伊久磨と馴染みらしい「湛さん」はドリンクメニューも見ずに伊久磨にお任せでオーダーし、和嘉那もそれにならった。
店までは車で来ていたが、今から工房まで帰るのはしんどい。少し飲んで、店からさほど離れていない実家に泊まらせてもらおう、と。
伊久磨が用意したのはスパークリングワインのボトル。
(さて……)
シャンパンクラスで一口、喉を潤した和嘉那は改めて「湛さん」と向き合う。
艶やかで清潔感のある漆黒の髪に、品のある笑みを浮かべる口元。目が合うだけで挙動不審になりそうな澄んだ瞳。
世間話でもしようと思うも、やけに緊張して、結局もう一度グラスを手にしてちびりと飲んでしまった。
「おひとりで、食事の予定だったんですか」
不意に、湛がしずかな声で聞いてきた。
びっくりした拍子にふきださないように気を付けながら、和嘉那はグラスをテーブルに戻す。
(えっと……。店の関係者というのはあまり知られたくないような)
「はい。ちょっとそこまで用事があって来ていて。予約していたわけじゃないんですけど、席が空いていたら食べて行きたいなって」
「伊久磨とはお知り合いですか。初めてではないですよね」
「はい、何度か。ひとりで来てもよくしてもらえるというか……。落ち着いて食事できるので」
嘘は言ってない。
湛は、年齢は和嘉那とはさほど変わらないか、少し上でもせいぜい三十歳そこそこに見える。しかも、特に威圧的というわけでもない。それなのに、姿勢が良すぎるせいか、妙に迫力があって受け答えだけで緊張する。
そんな和嘉那の心中など知ってか知らずか、湛はおっとりと寛いだ笑みを浮かべた。
「そうですか。ご存知かもしれませんが、ここのスタッフ、男三人ですからね。目が行き届いているのか心配になることもあるんですけど、きちんとお客様に認めて頂いているんですね。少しだけ、安心しました」
優し気な声で言って、グラスを手にする。
(……何関係のひとなんだろう。かなり親しいのかな。スタッフ側みたいな話し方をしている気がする)
腹の探り合いをするくらいなら、話してしまいたい。探り合いに向いていないし、そもそも見るからに相手が悪すぎる気がする。
言ってみようか。
料理がきたタイミングで、「このお皿、私が作っているんですけど」と。
しかし、ごく普通に言いそびれてしまう。
結局、その後も食事中、お互いの素性には触れないで当たり障りない会話をすることになってしまった。
それは、決してつまらない時間ではなかった。
むしろ。
和嘉那が何か言うたびに、感じよく笑い、ときに明るい笑い声までたてる「湛さん」との会話は、自分でも信じられないくらい楽しくて。
相手が聞き上手なだけ、話を合わせるのも上手いだけだと肝に銘じようとは思うものの、止まらなくなる。
(こういう人と毎日食事ができたら最高だな~)
メインの魚料理の頃にはしみじみそんなことを思ってしまって、慌てて打ち消さなければならなかった。
自分はただの間に合わせ。彼とは別に食事をする相手がいたのだ。
それを思うと、八つ当たりなのだが、少しだけ伊久磨が恨めしくなる。
(どういう予約だったんだろう。女性が相手だったならまずいと思うんだけど……。そういうの伊久磨くんは把握しているよね……?)
全然気にしなくていい相手なのだろうか。湛自身も。いや、そんなわけがない。
こんなことで、和嘉那が男女を意識してしまうなんて、誰も想定していなかっただけに違いない。
だって、ただ食事をしているだけだ。
(考えちゃだめだ。詮索しないようにしよう。本来の食事の相手のことなんか聞いたら、きっと落ち込む。今この瞬間を楽しんで、終わりにしないと)
知ってしまえばもっと知りたくなる。その後は――
叶わない恋だと思い知りながら、引きずられてしまうかもしれない。
怖い。
自分が来ていることは知っているはずだが、由春がキッチンから出て来る気配もない。それが有難いような、決定的な瞬間を引き延ばされているようなむず痒さがある。いっそさっさと出てきてくれて姉だと紹介してくれたら、悩まなくても良かったかもしれないのに。
(ひとを責めている場合じゃないよ……。私がこの人に惹かれなければ良かっただけなのに)
恋なんてしばらくしていない。
するとも思っていなかった。
ものづくりを学ぶ為に美大に行き、ひたすら制作に明け暮れていた。卒業後は実家に戻り、今の工房に就職したが、ほどなく窯主が引退を決め、格安で設備を譲ってもらった。以来、ぎりぎり市内と車で行き来はできるものの、普段は山奥で周囲に民家もまばらな古い家に住み、男性と付き合うどころか、新たにひとと知り合うことすらほぼ稀という中で。
年齢はそれなりに重ねているものの、自分でもどうなのかと思うほど初心で奥手なところがあるのは否めないのだが、まさか。
行きずりの相手に一目惚れしてしまうとは。
(良くないよね。絶対に良くない。もう食事は終わりなのに)
伊久磨が最後のデザートプレートを運んできてしまった。
「『紫陽花』です」
和嘉那が作ったガラスの器に、和菓子らしい、うつくしい花が載せられていた。
粒のそろった花びらのひとつひとつが光を帯びているようで、沈んだ花紺青の色から、淡い薄花色に見事にグラデーションしている。その脇に、水滴をのせた葉が一枚。
(こんなに綺麗な和菓子、パティシエのゆきくんが作ったの……!?)
あまりにも衝撃的で、和嘉那は思わずガラスの器を手に取り、目の高さまで持ち上げて息を詰めて瞬きもせずに見つめる。
しばらくそのまま、身じろぎすらできなかった。
その日一日の浮ついた気分が、すべて沈静化され、浄化されるような清廉さに満ちていた。
「信じられないくらいに綺麗。こんなに綺麗な紫陽花初めて見た……」
器をテーブルに戻してから、目に浮かんできた涙を指で拭う。
「なんかもう、びっくりして泣けてきちゃった。本当に、今まで見たこともなくて。すごいなぁ……。これ、ゆきくんが作ったの?」
伊久磨の姿を目で探すと、ちょうど目の前に見覚えのある湯呑が差し出された。
さきほど届けたばかりの。特別コースのお客様用に作った……。
一気に現実に引き戻され、和嘉那はがばっと立ちあがる。
「特別コースのお客様! そうだ、もしよければ私ご挨拶しようと思っていたのに。すっかり普通に食事しちゃってたっ」
思わず声に出して振り返ってみるも、すでに閉店間際の店内に他に客の姿はない。
(いない)
しくじった。
「うわー……。やっちゃったわ。もう帰っちゃったね……。なんで私ってばこう、抜けてるんだろ」
椅子に座り直してみるも、呆然としてうまく喋れない。
すっかり「湛さん」との食事に気を取られて、本来の用事を忘れてしまっていた。
「お料理とお酒が美味しくて……。普段人と食事取ることもないからすごく楽しくて。時間を忘れるってこういうことよね……。紫陽花綺麗だね。ゆきくんすごい成長しているね……」
何を言いたいのかよくわからないまま、意味を成さないことを口走ってしまう。
だけど、紫陽花が綺麗というのは正直な気持ち。これを見れただけで今日ここにきた甲斐があったと思えるほどの。
(由春の料理もおいしかったし、伊久磨くんの選んでくれたお酒も飲みやすかったんだけど。私は駄目だったな~)
痛恨。
その場に穴を掘って消えたい気分になっていたときに、伊久磨が淡々とした声で言った。
「その紫陽花は、コースにはなかったんですけど、特別にご用意しました。作ったのはうちの真田じゃなくて、こちらの和菓子職人、水沢湛さん」
(なんで)
なに? いまの、どういう意味?
意味が分からずに和嘉那は伊久磨を見る。
視界の端で、湛もまた動きを止めているのが見えた。
和嘉那と目が合った伊久磨は、面白そうに目元に笑みを滲ませてから、湛の前にもう一つの湯呑を置いた。
「本日の特別コースのお客様です。まだお帰りになってないですよ」
(……?)
理解不能で硬直した和嘉那の前で、伊久磨は小さく噴き出した。
それから、続けて何か言おうとしていたが、ようやくキッチンから姿を見せた由春がその場に現れて、和嘉那を湛に紹介した。
話を総合すると――
和菓子職人の水沢湛というひとは、元々伊久磨の知り合いで、「海の星」オープン以来何かと使ってくれているお得意様らしい。「紫陽花」は彼から店のスタッフへの差し入れだったということ。
そして、湛こそが、和嘉那の作る食器「和かな」を気に入り、今までにたくさん買ってくれた「いつものお客様」でもある。
今日は和菓子職人の先輩である高齢の男性を招く食事のはずが、相手が急遽来れないことに。
あわやキャンセルというタイミングに和嘉那が居合わせたので同席する運びになったというのだが。
和嘉那と伊久磨が知り合いということには気付いていた湛も、さすがに「和かな」本人だとは思っていなかったらしく、伊久磨と由春が下がって二人になった後も少し動揺した様子だった。
一方の和嘉那も、まさか一目会いたいと思っていた相手がこんなに若い男性だとは思っていなかった気恥ずかしさや、あまりにも美しいと思ってしまった和菓子を作る職人だと知った驚きやら。
(一目ぼれだけど行きずりだから仕方ない、で終わらせるつもりだったのに……!)
繋がると思っていなかった細い縁が繋がってしまったことに、どう対処して良いかわからない。
改めて名乗り合ったものの、正体を隠して話していたときほどに滑らかな空気にはならないのだ。
(「いつものお客様」に会いたかったこととか、「紫陽花」が綺麗なこととか、私本人の前で思いっきり叫んじゃったんですけど。気まずいですよね。気まずいと思います、ただでさえ秋波が漂っていただろうに、よりにもよって……受け止めきれないですよね)
今まで誰かに伝えたことある「好き」の百倍くらいいっぺんにぶつけてしまったのだ。困るって。ぶつけられた側が。
気まずい思いをしながらデザートのすもものパフェをつついて、ようやく目を向けると、じっと見つめられていた。
目が合った瞬間、カッと顔に血が上ったのがわかる。
一方の湛は、青みを帯びるほどに澄んだ瞳にやわらかな光を浮かべて微笑んでいた。
「もしお時間よろしければ、この後どこかで飲み直しませんか?」
「えっと……、良いんですか?」
取って食ったりはしないですけど、だいぶ挙動不審ですよね私。
とは、さすがに言えなかったが。
しどろもどろになっている和嘉那に、ふふっと笑みをこぼして湛は言った。
「ぜひ。このお店はもう閉店ですし、長居してもあいつら帰れませんから。せっかく『和かな』の作者さんにお会いできたので、もう少しだけお話してみたいのですが。いかがですか?」
断る理由は特になく。
和嘉那は、小さく頷いて同意を示した。
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