168人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
キス「くらい」
好きなのに、好きと言えないまま。
十日から二週間に一回顔を合わせ、納品と営業をし、販路を拡大する。
夜道が危ないからと、せいぜいランチをするくらいで、夕方には工房には帰る。
そんな状態でじりじりと一月半が過ぎた。といっても、最初の食事とその次の営業合わせて、四回しか顔を合わせたことはない。
連絡は、どちらともなく毎日のようにしている。
次の予定などをメールでやりとり始めるとすぐに電話がかかってくる。その方が早いから、と。
結局、一時間くらいあっという間に過ぎて名残惜しいままに無理やりに別れを告げて電話を切る。
(無理。好きが限界突破している)
もし湛が、和嘉那に対して1ミリの好意も持ち合わせていなかったら、死ねる。
いや、好意くらいはさすがにあるだろうが「特別」な感情はどうなのだろう。
よっぽど下心剥き出しの方が安心できるのに。気取らせないのだ、ほんの少しも。だから迷う。悩む。
好きなのは自分だけなのではないかと。
いまのささやかな繁忙状態が終わったら、会う口実がなくなってしまう。どうしよう。
悩み過ぎた頃に、湛から提案があった。
「今度、迎えに行きます」と。
きっかけは、納品する量がかなり多くなりそうだと言ったことだ。積み込みだけで大変だと何の気なしに口を滑らせたら、自分の車で工房まで迎えに行って手伝うと。
「迎えにきてもらった場合、送っていただく手間も……」と恐る恐る言うと、電話の向こう側で低い声が笑って答えた。
――それなら、帰すのは少し遅くても構いませんね。
夜の山道を運転するのは自分だから、という意味なのだろうか。
思いがけないことに泣くほど嬉しかった。
同時に、この機会を逃してもいけないと強く思った。
もしほんの少しでも好意があるなら。
進むか終わるか、いずれにせよここで区切りにして欲しい。
*
約束の当日、和嘉那は積み込み作業に備えてTシャツにジーンズという出で立ちで湛を待っていた。
ナビも入っているから、迷うことはないと言っていた湛は、約束の時間より15分も早く着く。
「おはよう。早過ぎた?」
以前より少しくだけた調子で話すように湛が、黒のSUVから降りると、笑いながら近づいてきた。
「大丈夫です。何かしら雑用はあるので色々していました」
木立の間に、ボロの平屋とその横に窯を備えた工房がある。
鋭い視線で当たりを見回した湛は、表情をくもらせ、考え込むような顔になってしまった。
「もし嫌じゃなければだけど、家の中少し見せてもらっていい? 窓とかドアの立て付け。だけど……。どちらにせよ工房にいる間は家は無人か」
何を気にしているのかは気付いてしまい、和嘉那は苦笑しながら言った。
「誰も来ないから大丈夫ですよ。由春もいつも気にしていて、窓に防犯グッズいっぱいつけていきましたけど、これまで危ないことは何も」
「今までなかったのは、運が良かっただけだ。空き巣にあうくらいならいいけど、あなたに何かあったら取り返しがつかない」
背筋がひやりとするほど、冷たい声だった。ときどき、湛はこういう話し方をする。
「そうは言っても……」
「いくら音が鳴るものを取り付けても、周りに気付くひともいなければ意味がない。男が押し入ってきたらどうするつもりなんです」
「戸締りはしてます」
「窓ガラスなんか割ってしまえばどうとでもなる。それで? 武術でも極めているんですか。それとも逃げ足に自信が?」
なんだか、怒られている。
しかし、ここに住んで仕事をするということでこの手のことはもうずいぶん親からも、弟からも、「海の星」の伊久磨からさえさんざん言われているのだ。今さら、湛に言われる筋合いではない。
「そういうの、全部覚悟の上でやっていますから」
売り言葉に買い言葉の勢いで言い返した瞬間、湛に両方の手首を掴まれた。息を飲む間もなく、近くの幹に背を押し付けられ、追い詰められる。
「覚悟ってなんですか。防げる危険は防ぎなさい。殺されるよりひどい目に遭ってからでは遅いですよ」
力が、強い。
抵抗を封じられ、間近な位置から顔を覗き込まれる。瞳には怒りがあった。
今までで一番、距離が近いのに。
風が吹いて木立がさやめき、葉擦れの音がさらさらと静けさを割る。
「手が痛いです」
「放すと思っているんですか。こんな風に女を追い詰めた男が、簡単に逃がすわけないでしょう」
冷静なのか、激昂しているのか、表情からは全然わからない。
和嘉那は肩が揺れるほどに大きく息を吐き出し、目を閉ざした。
「そこまで言うなら、キスくらいしてください」
沈黙。嫌な沈黙があった。
やがて、湛が溜息をひとつついた。
「キス『くらい』ですか。悩みますね」
和嘉那が目を開けたときにはすでに手は解放されていて、湛は背を向けて歩き出していた。
「水沢さん……」
「お時間とらせてすみません。今日はやることも多いですから、早く作業に取り掛かりましょう」
振り返らず、事務的に言って、工房に向かって歩き出す。
ほとんど掘立小屋みやいなトタン屋根の雑な建物を覗き込み、梱包した商品を見つけて引き返してきた。
「車、ぎりぎりまで寄せます。気を付けて」
キスは。
(悩みますって、どういう)
和嘉那の苛立ちの意味が伝わったのかどうか。
湛には謎の反応をされてしまい、その釈明すらしてもらえずに、何事もなかったように作業を開始されてしまう。
積み込みは自分がしますから、と湛に促されて和嘉那はとりあえず取引先に出向いても失礼にならない程度のワンピースに着替えた。
車で山を下り始めるときには、先程の件は二人とも口に出すことなく、少しずつぎこちない空気も解れていつものように他愛ない会話に終始することとなった。
最初のコメントを投稿しよう!