序章 - The day -

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序章 - The day -

 呼吸と鼓動がふたつずつ、森の中を走っていく。ひとつは若い男、騎士。短剣で藪を払って突き進む。その後にもうひとつ。女……少女。  どのくらい走っただろう。いつのまにか陽は落ちて、木々の隙間からわずかにのぞく星空がかろうじて方角を教えてくれている。  形ばかりの隊列は崖上から浴びせられた矢に散り、千里を薙ぐと言われた〝特別な〟少女の魔法も、今は月のない獣道で一歩先を照らすのが精一杯だ。指先に灯る炎は、それでもやっと、川を泳ぎきり、追手の気配と奴らの犬の鳴き声が届かなくなって、今、点けたばかり。蝋燭ほどに絞っても、濡れた体では野営に足るほど放出し続けられない。  水に入るのは避けたかったが、騎士が脇腹に刃を受けてしまった。血と匂いを垂れ流して川沿いに逃げても追いつかれるのは時間の問題。ありったけの魔力で川岸に火壁をぶち上げて、流れに飛び込むしか選択肢はなかった。  指先から火花も出なくなる前に運良く見つけた岩陰で、足元の枯葉を集めて火を移す。小枝が爆ぜ太い枝が赤く光りだす頃には、呼吸も鼓動も落ち着いていた。これで朝までは、少なくとも第二の敵──獣や魔物に襲われる心配はない。冷えた体も温められる。  騎士も少女もそれぞれに安堵の溜息を吐いた。とたんに疲労が押し寄せた。ふたりしてへたり込み、岩に寄りかかる。 「怪我はないか?」  騎士が問う。答えようと少女が口を開きかけたところに畳み掛ける。「寒くないか? 腹は減っているか? といっても何もないな。熱は? 機嫌は……」 「一度にまくしたてるな! 大丈夫だ!」  むくれた少女に笑い、火に枝をくべる。揺らめいた炎に照らされた少女の泥だらけの顔にも、緊張の色はもうない。 「おまえこそ、傷は?」 「こんなもん、もう塞がった」 「嘘だ」 「本当さ。見るか?」  衣服をめくる仕草をしてみせ、少女が首を振るのを見てまた笑った。  とにかくあの場を離れるのが精一杯で、手当などしていない。だが出血が続いている様子はなく、途中少女を担ぐこともできた。塞がるのは無理だろうが、そう深い傷ではなかったのかもしれない。 「じゃあ、俺は寝る」  騎士は岩にもたれたまま黒く汚れた手を剣の柄にかけて、目を瞑る。「おまえも寝ろよ、〝火竜姫様〟」 「その呼び方はよせと言っているだろう」  少女の抗議に騎士は口角を上げただけだった。軽口を叩いてごまかしているが、騎士とて消耗している。さっさと自分だけ寝る男が勝手に見えるが、休める時に少しでも回復を図るのは戦う者の定石だ。いつまでも目を開けていたら、少女が寛ぎにくいのもある。  少女は焚き火に近寄り手をかざした。明るさと熱に癒される。騎士からの死角を確認して、ブーツを脱ぐ。ローブの裾をたくし上げると、鱗に覆われた向こう脛を露わにした。鱗が乾けば調子が戻る。  少女にとって炎はこの体に流れる血であり魂であり、疑う余地のない故郷だった。  瀕死の魔女が火の精霊サラマンダーの生き血を飲んで蘇り産んだという出生秘話は、当の少女も疑っている。確かなのは、熟練した魔法使いでも御しきれない規模の炎を操る力と、腕や脚に所々、鱗の皮膚。純粋なヒトではない何かであること。  「火竜姫」は嫌だと言っても、ほかに呼んでほしい名があるわけでもない。物心ついた頃からの名はあるが、誰が付けたかも知れない記号は無意味だ。少女の事情も性格も知った騎士だけができる、お約束の冷やかしだった。  夜明け前にはここを離れるだろう、それまでに少しでも回復しておかないと。榾の弾ける音を聞きながら、膝を抱えて目を閉じた。
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