エビチリおばさんと豆乳おじさん

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 僕の家の近所に、小さな中華料理屋がある。「山田苑」と書かれた暖簾(のれん)は、作られたばかりのころは赤い布地に白い文字がさぞ映えただろうが、今やすっかり黒ずんでしまって見る影もない。  店名からして山田ナントカさんが経営している店なのだろう。食事時には十席程度のカウンター席とテーブル二つがそれなりに埋まっているので、なかなか繁盛しているようだ。  どこの町にもこういう昔ながらの定食屋はぽつぽつあるもので、僕も幼いころは実家近くの、こう言ってはなんだが汚い店に、何度か父に連れられたことを覚えている。  父は定食屋の主人やなじみの客同士で談笑していて、僕は大人の話はよくわからないので、店の隅に据え付けられた小さいテレビで野球やバラエティー番組を眺めていたものだった。たまに、酔ったおじさんにお小遣いをもらった。ビールをちびっと舐めたこともあるが、例に漏れずべーっと吐いて笑われた。  春に転勤で今の町に引っ越してきた僕は、この数か月忙しさに殺され続け、会社と家を往復するだけの生活を送っていた。大好きなラーメン屋巡りはおろか、休日にゲームのコントローラーを握る気力もままならない有様だったが、会社までの道のりにある山田苑は、幼いころを思い出すようで妙に気になっていた。  こっちに来てからずっと携わっていたプロジェクトがようやく落ち着き、僕はプロジェクトの先輩・掛川優一さんに食事に誘われた。夜十一時過ぎ、どうせ牛丼屋かコンビニで済ませるつもりだったので、二つ返事で了承した。 「面白い店があるんだ」  掛川さんは無類の酒好きだ。そんな彼が、 「酒がねぇのは惜しいんだけどな」 という店をわざわざ提案してきたのだ。さぞかしおいしい店に違いない。  掛川さんと歩く道は、よく知った道だった。というか、毎日往復している。辿り着いた目の前には、薄汚れたのれんがぶら下がっていた。 「やまだー! ゆいさんが来てやったぞ」  掛川さんは店内に声をかけながら扉を開け、近くのテーブル席に座った。 「何してる、はよ来い」  促され、掛川さんの向かいに腰かける。  壁にかかっているのは仔猫のカレンダー。その隣に、俳優だかアイドルだかのこれまたカレンダー。さらに、額に入った「漬け物ファンクラブ」の会員証。なかなか無秩序だ。 「もう来ないでくださいって言ったでしょ」  現れたのは、二十代半ばの若い女性だった。幼いころの記憶もあって、こういう店は老夫婦が切り盛りしているイメージだった。イメージと真逆の、童顔で小柄な女性だったのがとても意外だった。 「お客が来ないと山田さん、食ってけなくなっちゃうでしょ。土下座して感謝して欲しいくらいなんだけど」 「あいにくあんたみたいな薄毛おじさんに来てもらわなくても繁盛してますぅ。むしろ評判落ちるからホント来ないで」 「いやいや、山田さんよく頑張ったよ、もう楽になっていいんだよ」 「そちらこそ薄毛でたくさん悩んだでしょ……? 先に楽になっときなよ」 「フサフサな? 『フサフサ』のWikipediaに名前載ってるくらいフサフサ。だから君が先に土に還りなよ」 「おかしいなぁ。広辞苑の『禿・禿げ』の方に載ってたよ?」 と、出会いがしらでメチャクチャなことを言い合っている。 「後輩の前で強引に禿げキャラで押すのやめなさい。『あれ? もしかして掛川さん……?』って思われちゃうじゃん。幸太、俺はフサフサだからな?」  掛川さんは僕へ唐突に話を振った。どう答えてよいか分からず、愛想笑いでごまかす。 「後輩さん?」  女性はようやく僕の存在に気付いたらしい。 「そう。今年転勤してきた深道幸太。優秀過ぎて、俺がネットサーフィンで遊んでる間に仕事が進んでるわ」  おいコラちょっと待て。 「こんな人の下にいたら大変でしょ、お疲れ様です。近々遺影になると思うので、それまでの辛抱です」 「君、そんな嬉々として人殺さないで。サイコパスかよ」 「遺影ではフサフサのカツラ被せといてあげますよ、合成で」 「いやまぁ遺影になるころには禿げてていいんだけどな。君の遺骨を抱えながら禿げ散らかしてる写真がいい」 「もうすでに禿げ散らかってるから諦めな」  見た目に似合わず罵詈雑言の応酬を繰り広げている女性は、山田恵子というらしい。まん丸の目にぷるぷるの唇、ボブのよく似合うかわいらしい子だ。 「えーとじゃあ注文は?」 「やまちゃん、仮にも飲食店なんだから鼻ほじりながら注文取るのはどうかと思うよ」 「ほじってねぇわ、鼻の頭掻いてるだけだわ。目ェ腐ってんじゃないの? あ、ごめん、腐ってるのは頭皮でしたね」  掛川さんは天津飯と餃子、僕はエビチリとライスセットを注文した。  恵子ちゃんが厨房に引っ込んだところで、僕は掛川さんに恵子ちゃんとの関係を聞いてみた。  恵子ちゃんは大学時代のサークルの後輩。サークルメンバーは掛川さんの下の名前「優一」を略して「ゆい」と呼んでいたらしい。そして、僕から見れば二人はある意味非常に仲が良いように見えるのだが、本人たちからしてみれば、 「えっ!? 即死しろって思ってんだけど」 「は? ゆいさんの遺言早く聞きたい」 と、そのような評価に揃って不服のようだった。  テーブルに置かれたのは、エビチリが所狭しと詰まったお重だった。いや何でお重? 「おい、餃子は?」 「作るの面倒だったんで、二人で仲良くエビチリ食べてくれません?」 と、恵子ちゃんは箸を片手に掛川さんの隣に座り、 「私、エビチリ大好きなんですよ。エビがえービッチリ!」  先陣切ってエビチリを口にポイポイと放り込んでいった。 「お前、それ言うためだけにお重に詰めただろ。夜中にあんま食ったらぶくぶく太っちゃうよ、エビチリおばさん」 「実は最近二キロ太った」 「太ってる人って大抵胸もデカイのに、山田さん太ってて胸もない奇跡の体型だよね」 「そうなんですよ。ゆいさんの生え際と同じくらいヤバイですよね。つまり風前の灯」 「俺はてっぺんから行くタイプだから生え際は大丈夫です」  掛川さんがあることないこと口走っているだけで、恵子ちゃんはどちらかというと細い部類だろう。  お重にビッチリ詰まったエビチリは、三人で綺麗に平らげた。  店を出る時、恵子ちゃんは掛川さんに塩を撒いていた。 「次来るときは豆乳持ってくるわ」  恵子ちゃんは目を眇めて舌打ちをした。 「散々飲んだけど全然大きくなりませんでしたよ! てかもう来んな」  なるほど、豆乳はバストアップに効果があるとかないとか聞いたことがある。 「飲んでたのかよ。まぁ確かに豆みたいな乳してんな」 「あ?」  こうして店先で三十分ほど時間を使い、ようやくお開きになった。
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