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東京からの帰りの新幹線。まだ夢見心地だった。
あの時の会話は鮮明に脳内再生できる。声も表情も手のぬくもりも。
「こんにちは」
陽くんがニコっと挨拶してくれた。
「こんにちは楽しみにしてました!」
「ありがとう」
こっちはテンションぶち上げで早口になってしまう。その一方で、口臭くないかな? ミンティア五十粒くらい食べとけば良かった、と冷静な自分もいた。
「名前呼んでもらいたいです! いいですか?」
これが握手会での目標だった。いざ対面して、もし頭が真っ白になっても名前を呼んでもらうお願いだけは忘れないように、新堂陽カレンダーを前にセリフが条件反射で出るまで練習した。
「いいよー。何ちゃん?」
キタキタキターー!
「けけ恵子です」
興奮しすぎて噛んだ。
「けーこちゃんっ」
ここで再びニコっと笑顔(それ反則!)、そして手をギュっ!
至福の時。今まで生きてきて良かった。陽くんにとって私は数多のファンの一人、名前もすぐに忘れられるだろう。それでも今この瞬間の陽くんは私ひとりに向き合ってくれている。私だけの陽くんだ。
「今日はありがとね」
繋いだ手が離れる瞬間、陽くんは力を込めてもう一度手をギュっとしてくれた。澄んだ瞳が私の目にまっすぐ突き刺さる。
お父さんお母さん、先立つ不孝をお許しください。私の魂は天に召されました。陽くんは天使でした。
昇天しているとどうも時間の流れが早いらしく、帰りの新幹線はあっという間だった。改札を出てエスカレーターを降りる。その先のステンドグラスを見ると急に現世、否、現実に引き戻される感覚に襲われた。
嫌だ!
もう少し余韻に浸っていたくて、目を閉じて陽くんの笑顔、声、手の感覚を思い出す。私の手は自然と握手モーションを取った。そう、この手に陽くんが触れてギュっと握ってくれたんだ。陽くん潔癖症なのに……ああ! 握手した後に目元ヒクつかせながらアルコール消毒してる陽くんが見たい!
「お前オバQみたいな顔で何やってんの」
はっと目を開ける。
現実とはかくも残酷である。人の唇をオバQ呼ばわりする人間を私は一人しか知らない。
「どっちかってばゆいさんのが似てますよね、ハゲてるとことか」
「分かる、最近髪の毛抜ける」
なんでこの幸せな日にゆいさんに会うんだよ。落差がものすごい。
「今九時ですよ、こんなとこで何やってんすか」
「LINEしたやん?」
スマホを見ると確かにメッセージが来ていた。『帰ったらメシ行くべ』知るかハゲ。天に召されるのに忙しくてスマホどころではなかったことくらい察しろ。
「え、待ってたんすか? ストーカーかよ、変態。幸太さんとかあっくんと遊んでると思ってた」
「幸太は夜は彼女に会うって。あっくん明日シフト早いらしい」
「なるほどね、一緒にメシ行ってくれる人が私しかいないと」
ゆいさん友達いないですね、と大げさに鼻で笑う。
「ホンマそれ。お前フットワーク軽いから誘いやすい」
フットワークの軽さには自信がある。自称フッ軽おばさん。
「てか今日のやまちゃんかわいくね?」
「そらそうよ陽くんよ」
イベントがあると簡単に上がる女子力、しかしなにもないと絶対に上がらないそれもまた女子力。
「今日はかわいいけど三回に一回くらい茹ダコみたいな感じやでお前」
「それ三億回くらい聞いた。私すぐ前髪ビチャビチャになるけど、周りで他にそんな人いないんですよね。みんな前髪の素材は珪藻土かなんかなの? あぁ~、すみませんッ、前髪ないゆいさんに相談するのも変な話でしたぁ。じゃ、私今日陽くんに会って幸せだったので帰ります」
これ以上ゆいさんに幸せをぶち壊しにされてたまるか。今日という日を噛みしめていたいのに。
「は? せっかく待ってたのに」
「誰が待っててくれって頼みましたか変態オジジ。どうせなら福士蒼汰くんが良かった」
「そこ新堂陽じゃねーの?」
「陽くんは私のために待ったりなんかしないの」
握手会での陽くんの神対応は有名だが、プライベートでは食事すら面倒で枕元にチョコを置いてベッドで一日ゲーム。城の模型作りが趣味で、友人を玄関で着替えさせるくらい潔癖症で超合理主義。そんな陽くんが私を駅で待つなんてありえない。
けーこちゃんっ!
ごめん陽くん。待った?
いや全然、俺も今来たとこ。じゃ帰ろっか。
うん!
ねーーーーわ。
そんなの私が好きな陽くんじゃない。しかしゆいさんは不可解そうに首を傾げた。
「俺なんかなっちゃんの汗でご飯炊きたいって思ってるのに」
なっちゃんとはゆいさんのLINEアイコンになっているアニメの女の子だ。変態拗らせすぎ。本気でキモイ死んで。
「いい加減腹減ったから行こうぜ」
「だから私帰りますって」
「エビチリ奢ってやるから」
「行きます」
好物を出されると食い意地が勝った。食べても食べてもお腹減る、だって成長期だもん。横に。
時間も時間なので適当な中華料理チェーン店に入った。ゆいさんの奢りなので大好物のチャーハン、エビチリ、餃子をお腹いっぱい食べた。エビチリをもう一皿おかわりしたら、ゆいさんに太るだのなんだの茶々を入れられたが、握手会が終わった私は無敵である。
帰りは家まで送ってくれた、というか頼んでないのについてきた。帰り道は街灯が少なく、それでなくても経験上私には痴漢だの変態だのが寄りつきやすい。小柄で大人しそうな見た目だからだろう。ゆいさんが隣にいると正直心強かったが、悔しいので胸に納める。
陽くんに会えたしエビチリも食べたし。今日はご機嫌な日だった。ゆいさんの存在だけが汚点だったが、エビチリに免じて許してやることにした。
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