プロローグ

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プロローグ

 それは夏が終わり、静かな海が戻ってきた頃だった。空気も夏から秋へと変わり、涼しいというよりは寒いほど。そんな夜の海に来ることが松岡(まつおか)結菜(ゆいな)は昔から好きだった。  誰もいない砂浜。  静かに響く波音。  そして、どこまでも深く真っ暗な海。  その空間にいれば心が穏やかになれる。何もかも忘れてしまうことができる。  好きも、嫌いも、何もかも。  今日もまた、結菜はバイト帰りにこの砂浜へ来ていた。わずかな間でも全てを忘れたかったから。しかし……。 「……人がいる」  自転車に跨がったまま、結菜は砂浜を見つめていた。  いつもは誰もいない静かな砂浜には、一人の少女の姿があった。  細身ですらりとした長身。長い髪は海風に遊ばれて揺れている。後ろ姿なので顔は見えない。しかし、その姿がはっきりと見えるのは今日が満月だからだろう。  寄せては返す波の音が響く砂浜に、月明かりに照らされた少女が佇んでいた。  ――綺麗。  きっと、普通ならこんな真っ暗な砂浜に女が一人佇んでいるなんて恐怖でしかないだろう。しかし、なぜかそこに立つ少女の姿はとても美しく見えた。  ぼんやりと少女に見惚れていると、彼女はゆっくりと歩き出した。  海に向かって一歩、また一歩と足を進め、やがて波の中へとその足を進めていく。 「え……?」  ザブ、ザブと波の音に混じって水をかき分けるような音が聞こえてくる。 「え、マジで?」  結菜は呟きながら自転車を降りる。そうしている間にも少女はザブザブと海へ足を進めていた。  服を着たまま、迷う様子もなく冷たい海の中へ。 「ちょ、待った!」  思わず結菜は叫びながら駆け出していた。背後で自転車が倒れる派手な音が響いたが、構わず砂浜へと飛び降りる。そして「ちょっと! ねえ!」と声をかけながら全力で少女の元へ走った。それでも彼女の足は止まらない。すでに腰の位置まで海に浸かってしまっている。 「なにやってんの!」  結菜は飛び込むようにして海に入ると手を伸ばして少女の腕を掴んだ。 「早まったらダメだって――」  怒鳴るように言いながら手を引っ張って彼女を振り向かせる。その顔を見て、結菜は思わず言葉を呑み込んだ。  とても、綺麗な子だった。  結菜と同い年くらいだろうだろうか。月明かりに照らされた肌は透き通るように白く、纏った水滴がキラキラと輝いていた。その切れ長の目は、結菜を見て驚いたように見開かれている。しかし、それも一瞬のことで彼女の視線はすぐに前方の海へ向けられた。 「放して」  静かな口調で言いながら、彼女は大きく腕を振って結菜の手を振り解く。バシャッと海水が宙を舞った。その水しぶきが顔にかかり、結菜はハッと我に返って「だからダメだってば!」と再び彼女の腕を掴んだ。少女は眉を寄せて結菜を見る。 「何なの?」 「それはこっちの台詞だっての! 早まったことすんなって言ってるでしょ! ほら、早くこっちに来る!」  結菜は少女を引っ張りながらバシャバシャと浜辺へと戻っていく。しかし少女は駄々をこねる子供のように抵抗していた。 「抵抗すんな! 話とか聞いてあげるから、とりあえず戻ってから――」 「放してってば!」  もうほとんど砂浜に上がりかけた頃、少女が声を荒げながら腕を大きく振った。その反動を受けて結菜はバランスを崩す。 「ちょ、ヤバ――」  何とかその場に踏みとどまろうとしたのだが体勢を立て直すことができず、そのままうつぶせに倒れ込んでしまった。水が大きく跳ね、冷たい海水が全身を襲う。 「うっわ、冷た」  しかし、幸いにも水深は足首程度の場所だったので溺れるようなことはない。何かがクッションになったようで痛みもなかった。 「あー、最悪。制服びしょ濡れだし、海水が目に入ったし」  結菜はため息を吐きながら両手をついて身体を起こす。そして「え……」と絶句した。目の前に、少女の顔があったのだ。  どうやら倒れるときに押し倒してしまったようだ。彼女は綺麗に整った顔を不愉快そうに歪めて結菜を睨んでいた。そんな表情すらも綺麗だと思ってしまうのは月明かりのせいだろうか。  怒りが込められたまっすぐな瞳から、目を逸らすことができない。 「あの、えと、大丈夫……?」  すぐに起きなくては。そう思うものの、金縛りにあったように身体が動いてくれない。胸がドキドキしてしまうのは、きっとこんなに至近距離で誰かの顔を見つめたことがないからだ。  こんな、唇が触れてしまいそうなほど近くまで誰かに近づいたことがないから。  他に理由なんてない。そのはずだ。  では、これは何だろう。  胸のどこかがキュッと切ないような感じがするのは、いったい何なのだろう。  結菜は彼女を見下ろしながら口で軽く息を吐く。  なぜかそうしている間も、少女は結菜を睨むだけで動こうとはしなかった。ただまっすぐに結菜の顔を怒ったように見つめ続けている。  そのとき、ザッと音が響いて大きめの波が押し寄せてきた。そして仰向けに倒れたままの少女の顔に海水がかかる。 「冷たっ!」 「痛っ!」  海水に驚いて勢いよく身体を起こした少女の額が、思い切り結菜の鼻にぶつかった。結菜は尻餅をついて鼻を押さえ、痛みに悶える。それでもなんとか目を開けると、少女もまた痛そうに額を押さえていた。  その瞳が濡れているのは涙か、海水か。いずれにしても彼女もまた全身がびしょ濡れだった。 「ごめん! ごめんね、まさかこんなことになるとは……」  結菜が痛みを堪えながら謝ったとき、勢いよく顔に海水が飛んできた。何が起きたのか理解できずに呆然としている間にも、再び海水が顔にかかる。  結菜は瞬きをして何が起きたのか理解しようと視線を動かした。すると少女が怒ったような顔で海水を掬い上げ、結菜に投げるようにしてかけてきた。バシャッと音が響いて結菜の顔を海水が襲う。 「は?」  結菜は眉を寄せて彼女を見る。彼女は怒った表情のまま「最悪」と呟いた。 「冷たいし、痛いし、全身ビショビショだし。どうしてくれるの」  再び、バシャッと海水が顔にかかった。口の中が塩辛くてたまらない。  結菜は「このっ……!」と少女の顔をめがけ、海水を両手ですくい上げて投げた。見事に真っ正面から海水を浴びた彼女は一瞬驚いたような顔を浮かべたが、やがてクッと顎を引いてゆっくりと立ち上がった。そして無言で腰を屈めると両手を静かに海水に沈める。その次の瞬間、勢いよく結菜めがけて海水を跳ね上げた。  一際大量の海水を全身に浴びた結菜は濡れてボサボサになった髪を掻き上げ、深呼吸をしてから「なるほど。そっちがその気なら」と呟きながら立ち上がる。そして彼女と同じように腰を屈めて海水に両手を沈めると、キッと彼女を睨み上げた。 「受けて立つ!」  怒鳴ると同時に勢いよく海水をすくい上げては彼女にかける。しかし、すでに少女もまた次の攻撃態勢に入っており、間髪入れずに跳ね上げられた海水が結菜の顔を襲った。 「ちょ、もう顔はやめて。顔はダメだってば、化粧がやばいことになるから」 「何言ってんの。今更でしょ」 「今更じゃないって。女子高生は化粧が命でしょうが!」 「知らない、そんなの」  そんなことを言い合いながら、かけてはかけられを繰り返し、いつしか、なぜこんなことをしているのか考えることすら忘れて結菜は声を上げて笑っていた。少女も子供のように笑いながら海水をバシャバシャと跳ね上げている。
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