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通された部屋は蛍光灯の神経質な明かりが広がる狭い一室だった。質素なデスクが入り口横の壁に向けて一つ、部屋の真ん中に一つ。
案内をされて、部屋の中央に置かれたデスクに着く。
対面には、四十、いや、もうすぐ五十に差し掛かろうというところか。初老の男性警官が腰掛けた。入り口のデスクには若い女性警官が着く。背筋を伸ばした彼女の姿勢からは緊張が垣間見えた。
「佐伯光穂さん。昨日、あらましは聞いていますが改めて事情を聞かせてもらいますんで」
しわがれた声が対面で鳴った。息苦しいように感じてしまうが、彼には至って普通の声音なのだろう。こちらを見たまま感情の伺えない表情で、手元の資料を見ながら事務的に続ける。
「昨日、十九時頃。夫である佐伯文丈さんと言い争いになり、リビングにあった灰皿で頭部を殴打。倒れた文丈さんの胸にキッチンから持ってきた包丁を突き立てて殺害。その後、十九時四十七分に警察へ通報。警察から救急へ連絡。現場に到着した警官によって、文丈さんの死亡が確認」
昨晩の出来事のあらましを淡々と述べた後、しわがれ声の彼は眉根を寄せて、こちらを見てきた。
「いくつか聞きたいことがあるんですが」
そう前置きして目の前に座る初老の警官が尋ねて来る。
「旦那さんを刺してから通報まで三十分も時間が空いていますね。なぜ、すぐ通報しなかったんですか? すぐに救急を呼べば旦那さんは助かっていたかもしれない」
「衝動的で、自分の中で整理がつかず、夫を、刺してしまったことで頭が一杯で。どうして、こんな事に。後悔だけが頭を回っていたように思います」
「通報することに思い至らなかった、と」
こくり、と確認の声に頷きを返す。
「佐伯さん。あなた、今、衝動的にと仰った。ではなぜ、包丁を取りに? 最初に殴打に用いた灰皿ではなく、わざわざキッチンにあった包丁を取りに行っている」
「……止めなければ、と思ったので」
「止める、とは何を?」
答えるべきだろうか、迷いがあった。
少し迷った後、私は着ていた服を捲くって、青黒い後が残る腹部を晒した。僅かに表情を動かしただけで、警官は手元の資料に視線を落とす。
「失礼。直していただいて結構です。旦那さんに暴力を振るわれていた、と。日常的に?」
捲くっていた服を戻したところで、視線が帰ってくる。
「日常的、がどれくらいのことを言うのか、わかりかねます。ただ、私はこれに耐えることで生活をしてきました。これに耐えなければ生活が成り立ちませんでした」
相手の目を見返して応じる。
これは紛れもない事実だ。夫のDVを訴えたところで、その後の私の生活を誰が支えてくれるのか。社会に出て早々に専業主婦へと転身た私には、夫からの収入が得られない生活が想像できなかった。どこかで野垂れ死ぬ私は、今日まで生きてきた私と、どちらがマシな人生といえるのだろうか。
「夫は私に似た弱い人でした。強い人にへつらい、弱い人をなぶり、心の平穏を保つような、そういう--そういう人でした」
声が震えた。夫に包丁を突き立てた瞬間のことを思い出した。なんて、馬鹿なことをしたんだろう。
「なぜ、旦那さんと言い争いに?」
「……息子の事で」
「息子さんですか」
「一年前に捜索願を出しています。佐伯勇海。当時、七歳でした」
答えると、初老の警官は聴取を記録している女性に確認するように依頼する。彼女はデスクにあった内線を取り、通話を始める。
一通りの話が通り、内線の受話器が置かれると話が再開される。
「旦那さんとは息子さんについてどのような話を?」
「夫が、勇海のこと、もう、止めようって。勇海はまだ見つかっていないのに」
「旦那さんが行方不明者届の取り下げをすると言って、佐伯さんが反対された?」
「口論になって、夫がいつものように。でも、私も引き下がる訳には--だから……でも、私に夫を止める手立てなんてなくて」
昨晩のことを思い出す。
夫の疲れた顔。突然のことに必死で食って掛かった私に、夫はいつもと同じように拳を振り上げた。
頭に血が登っていた。衝動に突き動かされていた。とにかく、あの人を止めないといけない。その事で頭が一杯だった。
思い返し、聴取の中で痛烈に理解したことがある。
理解したがゆえに、涙が溢れた。
私はずさんで取り返しの付かない殺人を犯したのだ。
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