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前夜/祝夜
雑踏を、絡みつく他人の体温を振り切るように進んだ。
裸の両手をポケットに隠して、もつれそうになる足にひたすら「進め」と命令を送り続けた。
自分の荒い呼吸が耳を塞いで、世界は冷たい水の中のようだった。
車高の低い車から轟く怪獣の鼓動のような重低音。
路面店が放つ誘蛾灯のような明かり。
すれ違った男の酒気を帯びた体臭。
どこかで配られているのか、揃いのちゃちなフラッグを手に行き交う人々。
一年でいちばん無節操に浮かれた街に、フィナーレが近づいていた。
ギラギラと四方八方から殴りつけてくるうるさい光を避けるように足元を見た。薄っぺらいスニーカー。冷たい地面から容赦なく刺し込む冷気に何度も足を取られそうになりながら進む。絶えず寄せては返す人の波にさらわれそうになりながら、ただ進む。
しるべを探すように空を仰いだ。
黒い絵の具を薄めずにそのまま塗りたくったような空に、明るすぎるこの場所からは星ひとつ見えなかった。ただ遠い、下界の光も届かない遥か彼方に、取り残されたように月がぽつりと浮かんでいた。
その輪郭が、ピントが狂ったように不意にぼやけ滲む。線香花火のように頼りなく震えているそれは、見えない紙縒りの先から今にも落ちてしまいそうだった。
立ち止まった私の背中につんのめりそうになった誰かが、舌打ちをしてかかとを蹴った。弾みで零れそうになったものを、目を閉じてやり過ごす。
自嘲がこぼれた。白い息を吐きながら月を花火にたとえるなんて滑稽だ。私は詩人ではなく、ただ行き場を失くして路頭に迷う十四歳の少女だった。
肺が凍るような深呼吸をして目を開くと、月はちゃんとそこにあって、けれどさっきよりも少しだけ、また遠くなった気がした。
そのまま、動くことができなかった。傍らをはしゃいだ声を上げながら通り過ぎる少女たちのひとりに、したたか肩を弾かれてよろめいた。とっさにポケットからこぼれた手がたちまち冷たい空気にさらされて、そこに残った記憶がパリパリと乾いて剥落していく。
この手を掴んだ不器用な乱暴さ。自分でそれに怯んだくせに、決して手を離さなかった頑なさ。それを無理やり振り払った瞬間の、刺さるような胸の痛み。
最後の声と鍵の音が、まだずっと、木霊を閉じ込めたみたいに頭の中で鳴っている。
アンタナンカ。
イケナイヨ。
デテイケ。
マッテクレ。
閉める。開ける。
ニドトカエッテクルナ。
キミハソレデモ。
閉める。開ける。閉める。
最後にあのひとが追いかけてきてくれたのか、知らない。一度も振り返らないまま、寒さも息苦しさも気付かないくらい無我夢中で走った。
「始まる」
どこからともなく聞こえた声にのろのろと首を巡らせて、周囲の人々の視線を追って頭上を仰いだ。交差点を一望する巨大な街頭ビジョンが、群衆を手招くように点滅している。
《カウントダウン開始まであと10秒》
ビジョンに踊る派手な文字。
カウントダウンのカウントダウン。ばかみたい、と思うとまた少し笑えた。
《カウントダウン、スタート!》
画面が切り替わり、大きく映し出された二桁の数字がカウントを刻み始めると、それまで烏合のざわめきに過ぎなかった群衆の声は、ひとつの大きなうねりとなって空気を震わせた。
「59、58、57!」
巻き起こる大合唱。
身体を芯から揺さぶる声の波濤。
足の下でマグマがぐらぐらと滾るような興奮に飲まれて、薄くなった空気にあえいだ。
「30、29、28!」
いつの間にか固く握りしめていた手を開く。手のひらに爪の跡が赤く残って、それは目に映った瞬間からじんじんと痛み出した。すぐに寒さと区別がつかなくなる。
「15、14、13!」
終わる。今日の終わり。一年の終わり。
なにもかもゼロにリセットされて。
今までのことはぜんぶ忘れて。
また最初から、やり直せる。
今度は上手くやれるはず。
ドアの鍵は開くはず。
私は許せるはず。
忘れるはず。
きっと。
「10!」
不意に指先で、線香花火がはじけた。
「9!」
触れ合った誰かの手との間で散った、一瞬の火花。静電気。
「8!」
末端で生まれたちいさな痛みはいともたやすくトリガーとなって、堪えていたものをあっけなく崩壊させた。
たちまち視界が水没していく。
「7!」
景色が歪む。周囲の音が遠ざかる。
ひりつく指先の感覚も、じき消えるだろう。
「6!」
あのひとの手の温度を、もう思い出せないように。
「5!」
「――――」
名前を呼ばれた気がした。
「4!」
冷たい指先に触れた誰かの手。
熱い手だった。
熱を分け与えるように、寄り添って。
「3、2、1!」
爆発。巻き上がる大歓声。ビジョンに踊る極彩色の祝詞。
指先を、その熱い手が包んだ。
「おめでとう」
永い永い封印から解かれたブリキの人形のように、ぎこちなく声を見る。
いっそう強く私を捕えて、言葉は繰り返された。
「おめでとう。ハッピーニューイヤー」
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